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跡地に豊臣秀吉が大坂城を築いた堅牢な寺院とは?

第0回「歴史人検定」練習問題④


現代では再建された天守閣が残る「大阪城」は、かつて豊臣秀吉が「大坂城」として約3年をかけて造営した城郭。その地にはかつて、城郭にも似た極めて優れた防御能力を持つ、ある寺院が建っていた。


Q.豊臣秀吉が築いた大坂城は、次のうちどの寺院の跡地に築かれた城か?

 

1.大坂本願寺

2.山科本願寺

3.貝塚本願寺

4.天満本願寺

 

 明応5年(14965月、蓮如(れんにょ)は大坂で坊舎の建設を開始した。むろん目的は、浄土真宗の布教のためだった。その場所は、摂津国東成郡生玉荘大坂(現在の大阪府大阪市中央区大阪城・馬場町・法円坂付近)である。

 

 その大坂本願寺の造営に際しては、堺の町衆、摂津、河内、和泉、北陸の門徒衆の支援を得た。完成したのは、翌明応611月のことである。もともとは「大坂御坊」と呼ばれており、浄土真宗のシンボルでもあった。しかし、いつしか「石山御坊」とか「石山御堂」と呼ばれるようになったのである。

 

 永禄11年(1568)に顕誓(けんせい。蓮如の孫)の記した史料によると、造営の際に柱礎に適した石が土中に揃うという不思議な状況により、大坂を石山と呼ぶようになったとしている。ただ、この説は確かなものではない。

 

 やがて大坂本願寺は、次々と堀、塀、土居などを設け、次第に城郭の様相を呈していった。その防御能力は、戦国大名の城郭と何ら変わるところがなかった。立派な軍事施設である。こうして戦闘態勢を整えた大坂本願寺は、元亀元年(1570)以降、敵対する織田信長と途中で和睦を交えながらも死闘を繰り広げた。

 

 天正8年(1580)の和議成立後、顕如が大坂本願寺を退去すると、直後に火事で焼失した。その跡は、大坂城に引き継がれるのである。

大阪市大坂城公園内にある大阪城。秀吉が築城した「大坂城」は現存しておらず、写真の天守閣は昭和5年(1930年)に再建されたもの。

 天正10年(1582)に織田信長が本能寺の変で横死すると、天下人となった羽柴(豊臣)秀吉は、信長の安土城のように自らにふさわしい城郭を欲した。それこそが、大坂本願寺の跡地に造営された大坂城なのだ。

 

 大坂城の位置は京都にも近く、商都である堺にも近いという大きな利便性があった。淀川の河川交通も発達しており、眼前には大坂湾が広がっていた。もちろん陸路も至便性に優れており、政治経済の地としては申し分がなかったといえる。

 

 工事は、約3年を要して完成した。本丸は、大坂本願寺跡の石垣を活用しており、優れた防衛機能を有していた。また、二の丸、三の丸、総構えが重厚に配置され、三重の堀と運河は難攻不落にふさわしい防御性を兼ね備えていた。

 

1211日(土)開催「歴史人検定 第0回」練習問題より

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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