松永久秀が死に際して、運命を共にした名物の茶器とは?
第0回「歴史人検定」練習問題②
主君であった三好長慶の死後にその勢力を奪い、畿内で権勢を振るったったことから、乱世の「梟雄」(きょうゆう)として評価されることの多い松永久秀。久秀の死にはさまざまなエピソードが存在するが、その中でも茶器にまつわる逸話が興味深い。
Q.大和の大名・松永久秀が死に際して、運命を共にした名物の茶器は次のうちどれか?
1.玳玻天目茶碗
2.古天明平蜘蛛
3.銘卯花墻
4.九十九髪茄子
山城国西岡の出身の松永久秀(まつながひさひで)は、最初は三好長慶(みよしながよし)に仕えていた。長慶の死後、久秀は三好三人衆と抗争に及んだが、やがて足利義昭の家臣となり、元亀元年(1570)に大和一国の平定に成功した。むろん信長とは良好な関係であった。
ところが、翌年に信長との関係が悪化すると、三好三人衆と同盟し、反逆の意を示した。のちに足利義昭と信長との関係が悪くなると、久秀は義昭の味方となり、反信長を貫くようになる。元亀4年に信長が義昭を攻撃すると、久秀の情勢は悪くなり、翌天正2年(1574)に降参することになった。
以降、久秀は信長の配下に収まるが、天正5年8月になると、再び信長に背いたのである。驚愕した信長は松井有閑(ゆうかん)を派遣して、理由を尋ねた。しかし、久秀は有閑に会おうともしなかった。同年8月10日、叛旗を翻した久秀に対し、織田信長は嫡男・信忠を総大将とし、筒井順慶(じゅんけい)勢を主力とした軍勢を派遣した。そして、同年10月には、信貴山(しぎさん)城を包囲したのである。久秀は窮地に追い込まれた。

松永久秀が最期を迎えた信貴山城址(奈良県生駒郡平群町)。生駒山の山頂に位置する山城で、天守も有していたとされる。
ここで、茶に傾倒していた信長は久秀に対し、名器「古天明平蜘蛛」(こてんみょうひらぐも)を差し出せば助命すると伝えた。しかし、久秀は「平蜘蛛の釜とわれらの首と二つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ。粉々に打ち壊すことにする」と回答した。
「古天明平蜘蛛」は、蜘蛛が這いつくばっているような形をしていたことから、その名が付けられた。久秀が秘蔵する、茶の名器として知られていた。
当時、名物とされる茶器は、一国に値するともいわれていた。ましてや、憎き信長だけに、易々と名器「古天明平蜘蛛」を渡せるわけがない。久秀にとって、当然の決断だった。
それを聞いた信長は、人質であった久秀の孫二人を京都六条河原で処刑した。やがて、織田軍の総攻撃が始まると、久秀の敗勢は明らかであった。久秀は天守で「平蜘蛛茶釜」を叩き割り、同年10月10日に爆死したのである。なお、一説によると、茶釜に爆薬を仕込んで自爆したともいう。
12月11日(土)開催「歴史人検定 第0回」練習問題より