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伝教大師[最澄]の誕生から出家・受戒までをたどる

今月の歴史人 Part5


天台宗の開祖である最澄とは、いったいどのような人物だったのか?──。日本の仏教界や思想・文化に多大な影響を与えた日本天台宗。その開祖である最澄の、生涯を紹介していく。


13歳で仏教の世界に入り、15歳で得度し「最澄」の名を授かる

 

【最澄の生涯】

天平神護2(766)

近江国滋賀郡に生まれる。幼名は広野(767年説あり)
延暦4(785) 東大寺の戒壇で受戒し、正式な僧となる。その後、比叡山に登り、修行に励む
延暦7(788) 比叡山に一乗止観院(延暦寺 根本中堂の前身)創建
延暦16(797) 内供奉十禅師に任命される

延暦17(798)

比叡山で法華十講を修す
延暦23(804) 遣唐使船で入唐。天台山で天台宗の教えを学ぶ。翌年、越州で密教を学び帰国
延暦24(805) 高雄山寺で灌頂を修す
延暦25(806) 天台法華宗に年分度者2名が認められる(天台宗開宗)
弘仁3(812) 空海から金剛界、胎蔵界の灌頂を授かる
弘仁8(817) 法相宗・徳一との論争始まる下野国の大慈寺や上野国の緑野寺に赴く
弘仁9(818) 六所宝塔の建立を発願する
弘仁10(819) 『山家学生式(四条式)』を朝廷に提出し、比叡山の大乗戒独立を願う
弘仁11(820) 『顕戒論』を提出する
弘仁12(821) 『法華秀句』を著す
弘仁13(822) 6月4日、比叡山にて入寂。同月 11日、大乗戒認可の官符が下る
貞観8(866) 伝教大師の諡号を清和天皇より贈られる

 

 2021年は弘仁13年(822)6月4日に57歳で生涯を閉じた伝教大師最澄の1200年を数える大遠忌(だいおんき)にあたる。伝教大師は貞観8年(866)に日本で最初に贈られた大師号である。日本の仏教界や思想・文化に多大な影響を与えた日本天台宗の祖師について概観する。

 

生源寺/最澄の生誕地とされる滋賀郡大友郷の生源寺境内には、誕生時に産湯の水として使われたとされる古井戸・産湯井、胞衣を納めたとされる胞衣塚などがある。

 最澄の幼名は三津首広野(みつのおびとひろの)であり、父は三津首百枝(みつのおびとももえ)であった。生年については、実は2説あり、かねてより問題になっていた。それは、天平神護2年(766)と神護景雲元年(767)という2つの生誕説であり、それぞれ根拠を有する。前者の766年説は京都の来迎院に伝わる国宝の公文書(「近江国府牒」・「度縁」・「僧綱牒」)に基づくものであり、最近はこの説が有力になっている。本稿の年齢もそれに従っている。

 

 もう一つの 767年説は、直弟子の記録を典拠とする。代表的な文献としては、最澄の伝記である一乗忠(いちじょうちゅう)撰『叡山大師伝』に「春秋五十六」とあることから導かれる。一乗忠は真忠とされる。 『叡山大師伝』では最澄(広野)が幼少期に秀才振りを示し、両親はそれを人に知られたくなかったと記している。

 

 最澄が仏門に入ったのは、晩年の著である『内証仏法相承血脈譜』(ないしょうぶっぽうそうしょうけちみゃくふ)で自らが述懐するところによって13歳であったことが知られる。師は近江の大国師行表(ぎょうひょう)であり、『叡山大師伝』では、最澄の気骨を見、意気を知って教授したと伝え、唯識の章疏を習学させたとしている。すなわち、最澄は、天台仏教修学以前に、晩年の論争相手となる徳一(とくいつ。生没年不詳)の学問領域を学んだことになる。唯識の章疏とは、南都仏教の代表である法相宗の文献を意味し、その教義は天台教学と対立する。

 

 最澄が得度して、広野から最澄になったのは15歳の時である。近江国分寺の僧、最寂(さいじゃく)の死闕(しけつ)に因む補充であった。『内証仏法相承血脈譜』では、行表から「心を一乗に帰す可き」ことの教示を受けたことを記しているのであり、法華一乗を自らの立場とするようになる布石であったとしての追憶であろう。

 

 そして、18歳の時、「沙弥最澄」に度縁が発給され、20歳の時、延暦4年(785)4月6日付で東大寺において具足戒(ぐそくかい)を受けたことを証する僧綱牒が「僧最澄」の名のもとに授与された。これらのことについて、『叡山大師伝』には簡略に「年十五にして国分寺の僧闕(そうけつ)を補い、年二十にして進具せり」と記すのみであるが、公文書の年齢とは一致している。

監修・文/大久保良峻

 

『歴史人』11月号「日本の仏像基本のき」より

 

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