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身近で手が届く遊女!政治に振り回されたが、吉原の遊女以上に人気があった「岡場所」!

江戸の性職業 #最終回

■切見世の遊女との遊び時間は線香が灯っている間だけの「ちょんの間」

図1『春色辰巳園』(為永春水著、天保六年) 国会図書館蔵

 

 時代によって差があるが、岡場所は江戸市中に四十~五十か所くらいあった。

 

 岡場所の遊女はセックスワーカーとしては、吉原の遊女以上に人気があった。支持されていた、といってもよかろう。

 

 というのも、

 

 第一に、吉原に比べ、岡場所は揚代(料金)が格段に安かった

 

 第二に、吉原は江戸市中からは辺鄙(へんぴ)な地にあったのに対し、岡場所は市中に散在していたため、格段に便利だった

 

 からである。

 

 下級武士や庶民の男は、吉原に行っても花魁道中(おいらんどうちゅう)を見物したり、張見世の遊女を冷やかしてまわるだけで、妓楼(ぎろう)にはあがらない。実際に女郎買いをするのは岡場所の女郎屋、というのが一般的だった。

 

 つまり、下級武士や庶民の男にとって、岡場所の遊女は手の届く、身近なセックスワーカーだったのである。

 

 ただし、岡場所にもピンからキリまであった。岡場所の中でもとくに人気があり、かつ高級とされたのが深川の仲町である。

 

 図1に、仲町の女郎屋の二階の、化粧(みじまい)部屋の光景が描かれている。

 

 声がかかるまで、遊女たちは思い思いに過ごした。

 

 箱の中は寿司だろうか。

 

 壁の棚に、陰茎の形をした金精神(こんせいしん)が祀られているのがわかる。遊女たちは金精神に手を合わせ、商売繁盛を祈った。

図2『鏡山化粧紅筆』(東西庵南北著、文化9年) 国会図書館蔵

 

 また、岡場所の女郎屋にもピンからキリまであった。

 

 一般的に、岡場所の女郎屋は二階建てだった。

 

 しかし、最低水準の女郎屋を切見世(きりみせ/局見世ともいう)といい、平屋の長屋だった。

 

 長屋には二畳ほどの部屋が並んでいて、遊女はそこに寝起きし、また客を迎えた。

 

 図2に、切見世の光景が描かれている。

 

 客の男と遊女がつかみ合いの喧嘩をしており、その雰囲気がわかろう。

 

図3『岡場所考』(石塚豊芥子著、安政4年) 国会図書館蔵

 

 図3は、浅草堂前と呼ばれた岡場所の、切見世の部屋。

 

 畳は二枚分しかなかった。また、その遊びは「ちょんの間(ま)」で、時間にして十~十五分くらいだった。線香をともして時間を計る。

 

 切見世の遊女は、最下級のセックスワーカーといえよう。

 

 なお、岡場所は政治に翻弄された。

 

 天明七年(1787)、松平定信が老中に就任するにともない断行した寛政の改革によって、岡場所はすべて取り払いになった。

 

 本来、非合法なため、取り払われても抗議はできない。しかし、人々の不満は大きかった。

 

 寛政五年(1793)、松平定信が失脚すると、その後、岡場所はたちまち復活し、前にもまして繁栄を謳歌した。

 

 ところが、天保十二年(1841)から、老中水野忠邦が断行した天保の改革によって、またもや岡場所は徹底的に取り潰された。

 

 そして、天保十四年、水野忠邦と失脚にともない、各地の岡場所は散発的に復活した。

 

 このように、岡場所は政治の風向きに大きな影響を受けた。

 

 岡場所の遊女は、男たちの人気があったにもかかわらず、不安定なセックスワーカーだった。

 

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永井 義男ながい よしお

1997年『算学奇人伝』で開高健賞受賞。時代小説のほか、江戸文化に関する評論も数多い。著書に『江戸の糞尿学』(作品社)、図説吉原事典(朝日新聞出版)、江戸の性語辞典(朝日新聞出版)など。

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