行商人を装った私娼「提重」 というお仕事【後編】
江戸の性職業 #035
■寛政の改革以前は“提重”を手にしていなかった

図1)『米饅頭始』(山東京伝著、安永9年)、国会図書館蔵
提重(さげじゅう)を描いた戯作(小説)に、『米饅頭始』(山東京伝著、安永九年)がある。それによると、幸吉・お米夫婦は生活に困窮し――
是非なく渡世のために、お米を提重というものに出しけり。
といういきさつで、ついに幸吉は、女房のお米に提重をさせ、生活費を得ることにした。
図1は、亭主の幸吉が着替えを背負って、女房のお米を送っていくところである――
幸「俺ゆえ、そなたは憂き苦労をするの」
米「おまえのためじゃもの、何の苦労でござんしょ」
女房が提重をするのは不貞でも堕落でもなく、あくまでセックスワーカーの仕事という認識だった。
これは、当時の社会の認識でもあった。
現代で言えば、夫が失業したので、それまで専業主婦だった妻が性風俗店で働くことになった。夫は納得し、妻に感謝している――こういう状況になろうか。
ところで、図1の安永九年(1780)は、寛政の改革以前で、しかも、お米は提重を手にさげていない。
近世風俗の基礎文献『守貞謾稿』(喜多川守貞著、幕末期)には――
このさげぢうと云ふ売女は、いづれの比にや不詳。……(中略)……提重、筥(はこ)に食類を納れて歩行けるを矯けて売色せしなり。かの綿摘と同意なり。愚按ずるに、これは自家に客を迎ふは稀にて、多くは寡夫、独身者等の家にて買ふなるべし。
とあり、もともと提重と呼ばれるデリヘル業態のセックスワーカーがいたようだ。
「売色」は売春のこと。
「愚按ずるに」の愚は、著者の喜多川守貞のこと。著者が思うに、ということである。
男やもめや、独身の男の家に行き、そこで性行為をするシステムだった。
寛政の改革で私娼の取り締まりがきびしくなったため、菓子などを入れた提重を手にさげ、行商人をよそおうようになったのかもしれない。
なお、「綿摘(わたつみ)」もデリヘル形式のセックスワーカーである。
『米饅頭始』のなかで、著者の山東京伝は――
此時分は提重というもの殊の外はやりて、多く類が出で来けり。これ今はやる地獄の類いなるべし。
と述べている。
同書の刊行年が安永九年だから、提重が大流行したのは明和期(1764~72)、地獄がはやっている今は安永期(1772~81)ということになろうか。
「地獄」もセックスワーカーの一種だが、これについては別項で述べた。