行商人を装った私娼「提重」 というお仕事【前編】
江戸の性職業 #034
■饅頭とともに体も売る江戸時代のデリヘル

絵1)©イラスト/宇津木志加
吉原は公許の遊廓である。そのため、吉原の遊女は公娼(こうしょう)だった。
江戸幕府は、吉原以外での売春、つまり私娼(ししょう)を禁じた。しかし、これはあくまで建前であり、実態は野放しに近かった。
江戸の各地には岡場所と呼ばれる私娼街がたくさんあり、公然と営業していた。町奉行所は見て見ぬふりをしていたといってよい。
ところが、天明七年(1787)に松平定信が老中に就任し、断行した政治改革――寛政の改革は、杓子定規そのものだった。私娼は厳禁され、江戸市中の岡場所はすべて取り払われた。
寛政年間の見聞を記した『梅翁随筆』(著者不詳)は、岡場所の取り払いは徹底していたと記したあと――
夫より町に住て色を売る事あたはざるゆへ、女商人と成り提重へ菓子を入て、屋しきの部屋々々、辻番所に入来り情を商ふと成。此女を提重と異名して大に流行せしが……
と述べている。
本来、提重(さげじゅう)は提重箱の略である。【絵1】のように、取っ手を付けて、持ち運べるようにしたもの。
寛政の改革にともない岡場所が強制撤去され、そこで働いていた私娼は職を失ってしまった。
そこで、菓子を詰めた提重を手にさげ、さも女の行商人をよそおそった。
大名屋敷に出向くと、
「饅頭を売りに来ました」
などと告げて、門を通してもらう。
昼間であれば、各種の行商人が大名屋敷に営業に来るのは普通のことだから、門番はあっさり通行を認める。
女は屋敷内の長屋に行き、そこに住む藩士らに声をかける。
「饅頭はいかがですか」
実態は、饅頭も売るが、体も売った。
藩士は心得ているので、
「おう、買うぞ。はいってくれ」
と、女を呼び込む。
こうした女は「提重」と呼ばれ、大いに流行したようだ。
現代の性風俗産業でいえば、ハコモノが禁止されたので、業態をデリヘル(デリバリーヘルス)に変えたことになろうか。
セックスワーカーへの需要は変わらないため、たとえ禁止されても、業態を変えて生き延びたといえよう。
藩主の参勤交代に従って江戸に出てきた諸藩の藩士を、勤番武士と言った。彼らはおよそ一年間、藩邸内の長屋で暮らすが、ほとんどが単身赴任だった。
彼らは性に飢えているが、金銭的な余裕はないので、とても吉原には行けない。
勤番武士が遊ぶのは、もっぱら岡場所だった。
ところが、その岡場所がなくなり、もっとも困ったのが勤番武士だったのだ。
そうした需要を的確にとらえたのが、提重と言えよう。藩邸内の長屋に、提重のほうからやって来たのである。
大名屋敷の門限はきびしく、暮六ツ(くれむつ・日没)には門が閉じられた。だが、昼間はわりあいに自由で、前述したように行商人も出入りしていた。
真っ昼間、勤番武士は藩邸内の長屋の自分の部屋に提重を呼び、性行為を楽しんだわけである。
提重を自分の部屋に呼び込み、性行為をしていれば、当然、他の藩士に知れたであろう。
だが、誰も非難や糾弾はしなかった。お互い様だったのである。
(続く)