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3000人以上の遊女が集結した江戸時代の「吉原」【前編】

江戸の性職業 #038

■堀と板塀で囲まれた総面積約二万八百坪の“桃源郷”

図1『東都新吉原一覧』(歌川広重二世、万延元年) 東京都中央図書館蔵

 

 遊女は、女郎(じょろう)、娼妓(しょうぎ)、売女(ばいじょ)、傾城(けいせい)とも言った。現代の言い方では、娼婦、売春婦になろう。

 

 ただし、江戸時代は売買春が合法だった(条件はあったが)ことを忘れてはなるまい。

 

 さて、遊女は江戸のセックスワーカーの代表であり、筆頭でもあるが、遊女にも二種類あった。

 

 ① 吉原の遊女

 

 吉原は公許の遊廓である。つまり、吉原の妓楼は、江戸幕府の許可を得て営業していた。そのため、吉原の遊女は公娼だった。

 

 吉原の遊女は、合法的なセックスワーカーだったのである。

 

 ② 岡場所の遊女

 

 岡場所は、江戸の各地にあった非合法の遊里である。非合法とはいえ、岡場所の女郎屋は公然と営業していた。町奉行所は見て見ぬふりをしていたからである。

 

 堂々と営業していたとはいえ、岡場所は非合法なので、遊女は私娼である。

 

 岡場所の遊女は、違法のセックスワーカーだった。

 

 さて、吉原遊廓は元和四年(1918、二代将軍秀忠の時)、現在の東京都中央区日本橋人形町のあたりに開設された。

 

 およそ四十年後の明暦三年(1657、四代将軍家綱の時)、吉原は千束村(現在の東京都台東区千束四丁目)に移転した。その後、幕末まで二百年以上にわたって、吉原は公許の遊廓として営業を続けた。

 

 図1に、吉原の全景が描かれている。

 

 吉原は長方形の区画で、総面積は約二万八百坪あった。堀と板塀で囲まれた閉鎖空間で、図1の手前にある大門が唯一の出入り口だった。

 

 なお、中央の通りに桜が満開なのは、時季になると、植木屋が根付きの桜の木を運び込み、植えたからである。吉原の豪華さがわかろう。

 

 俗に「遊女三千」と称されたほどで、吉原には三千人以上の遊女がいた。二万坪強の区画に、三千人以上のセックスワーカーが集結していたことになろう。

 

 この遊女を目当てに、日夜、多くの男が吉原にやってきた。

 

 吉原の中央をつらぬく大通りを「仲の町」といった。

図2『恋渡操八橋』(式亭小三馬著、天保12年) 国会図書館蔵

 図2は、仲の町のにぎわいが描かれている。図2の左端に見える門が、大門である。

 

 桜の時季になると、この仲の町に桜の木が植えられた。

 

(続く)

 

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過去記事

永井 義男ながい よしお

1997年『算学奇人伝』で開高健賞受賞。時代小説のほか、江戸文化に関する評論も数多い。著書に『江戸の糞尿学』(作品社)、図説吉原事典(朝日新聞出版)、江戸の性語辞典(朝日新聞出版)など。

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