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1宿場150人…いや、その倍はいた「飯盛女」は和歌になるほど人気者【前編】

江戸の性職業 #036

■泊り客の食事の給仕がいつしか性の相手もすることに

図1『両雄奇人』(市川三升著、文政10年)、国会図書館蔵

 飯盛女(めしもりおんな)は本来、街道の宿場の旅籠屋(はたごや)で、泊り客の食事の給仕をする下女である。客に飯を盛ることから、飯盛女と称した。

 

 ところが、しだいに客に呼ばれると寝床にきて、性の相手もするようになった。いつしか、飯盛女は宿場のセックスワーカーになったのである。

 

 その結果、飯盛女が多数いる大きな宿場は、遊里(ゆうり)の役割も持つようになった。飯盛女を置いている旅籠屋は、事実上の女郎屋となったのである。

 

 飯盛女の揚代は、夜は四百文、昼は六百文が一般的で、手軽だった。

 

 図1は、どこの宿場かは不明だが、街道には旅人や、荷を積んだ馬が行き交っている。一方で、仕出し料理を運ぶ若い者は、芸者らしき女ふたりと言葉を交わしており、遊廓としてもにぎわっていた。

 

 街道に面した旅籠屋では、飯盛女が顔見せをしている。

 

 さて、品川(東海道)、内藤新宿(甲州街道)、板橋(中山道)、千住(日光・奥州街道)は江戸四宿(えどししゅく)と呼ばれた。もちろん、江戸四宿の旅籠屋も飯盛女を置いていた。

 

 なかでも、品川と内藤新宿は宿場と言っても、江戸市中から近かったので、江戸の男の感覚では、完全に江戸の遊里だった。

 

 つまり、品川と内藤新宿の飯盛女は、江戸のセックスワーカーだった。

図2『東海道五十三次』(葛飾北斎)、国会図書館蔵

 図2は、品川の飯盛女である。

 

 旅籠屋の窓から海(東京湾)が見えるのが、いかにも海沿いの品川らしい。もちろん、現在は埋め立てが進んだので、かつての品川宿のあたりは海から遠い。

 

 品川は道中奉行から、宿場全体で五百人の飯盛女を置くことを許可されていた。しかし、実際には倍以上いるのは、常識だった。

 

 春本『旅枕五十三次』(恋川笑山、嘉永年間)によると、飯盛女の揚代には幅があり、高いところが銀十匁か金二朱、安いところが六百文や四百文だった。

 

 また、嘉永五年(1853)の『品川細見』によると、揚代銀十匁が五十三名、金二朱が四十一名と、他の宿場に比べて、高級な飯盛女が多かった。

 

(続く)

 

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過去記事

永井 義男ながい よしお

1997年『算学奇人伝』で開高健賞受賞。時代小説のほか、江戸文化に関する評論も数多い。著書に『江戸の糞尿学』(作品社)、図説吉原事典(朝日新聞出版)、江戸の性語辞典(朝日新聞出版)など。

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