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都内有数の山城・八王子城をたずねて

北条氏が関東の西に築いた軍事上の拠点

今なお残る本丸跡や石垣が必見の八王子城の魅力に迫る!

八王子城を遠望標高約600mの高尾山より八王子城を見た景色。八王子城は現在、国指定史跡として指定されている。八王子城が山頂に位置する城山は、別名深沢山の 名称でも知られている。

 

 八王子城は北条氏が豊臣秀吉に対する西の最前線として増強した城である。城は標高445mの深沢山の山頂に築かれている。この深沢山は古くより修験(しゅげん)の山であり、八王子権現を祀ったことにより八王子の名が付けられた。こうした信仰の山、聖地に城を築くことに意味があった。築城は滝山城主北条氏照によって元亀2年(1571)頃よりおこなわれたと伝えられるが、天正15年(1587)頃には氏照が滝山城より八王子城に居城を移している。これは迫り来る豊臣秀吉軍との戦いに備えてのことであった。

 

 天正18年の秀吉による北条攻めでは、秀吉軍の北陸部隊である上杉景勝、前田利家、真田信幸(のぶゆき)らに攻められ落城した。城の構造は大きく山頂の詰城(要害地区)と、山麓の居館(御主殿地区)から構成されている。山頂の本丸は非常に小規模で、土塁や虎口も認められない。尾根筋上には金子曲輪、小宮曲輪、松木曲輪が連なるが、これらにも土塁は設けられていない。

 

本丸付近から見る風景八王子城の標高は445mと、他の山城 と比べても高い位置に造られている。その本丸近辺からは八王子市街と東京 都心部を一望することが可能で、爽快な景観を楽しむことができる。


本丸跡 御主殿と比べると本丸部分は非常に限られたスペースで、おそらくは大きな建物はなかったと思われる。昭和の頃 に建てられた、「八王子城本丸跡」と刻まれた石碑が残っている。

 しかし、何と言っても八王子城の見どころは本丸よりもさらに西方に構えられた曲輪群である。本丸西側には堀切が配されて、一旦城域は区画されるものの、西側に伸びる細長い尾根筋を曲輪として削平し、西側尾根頂部には大天主と呼ばれる小規模な曲輪が石垣を構えて配されている。その西側直下には巨大な堀切が設けられている。

 

 この大天主こそが西方最前線に構えられた戦闘指揮所として評価できよう。こうした本丸よりも西側で、石垣を用いた縄張は天正15年以降に増築された部分とみられる。その石垣は圧巻である。訪れた際にはぜひとも足を伸ばして、大天主まで見学されることをお薦めしたい。

 

大天主跡の石垣別名で詰の城ともよばれる大天主跡は、一説によれば本丸が陥落した際に最後の拠点とするために配置された場所。その一帯には、当時のものと推測され る切り立った大石が散見される。

 

 一方、山麓に構えられた御主殿では継続して発掘調査が実施されており、主殿、会所、常御殿が検出されている。その構造は将軍邸や守護所を模したもので、庭園も検出されている。秀吉を目前にした臨戦状態でなぜこうした御殿を設けられたのかは不思議でならない。

 

 御主殿では背面の谷筋に数段にわたって石垣が構えられているが、この石垣は最下段の石材を少し前に出して、そこから上段部を積み上げている。こうした工法をアゴ止め技法と呼び、関東の戦国時代の石垣工法として注目される。八王子城では山上部の石垣にもこうしたアゴ止め技法が認められるので、忘れずに見学してほしい。

御主殿と曳橋御主殿は当時のものが再現され、石塁は稜線上に自然石を積み重ねた元来のものがそのまま残されている。曳橋は 近年再建され、御主殿とともに興趣あふれる景観を楽しむことができる。


御主殿の滝御主殿には北条氏照の居館があったという。小田原征伐では落城する際に、御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが上流で自刃し、次々と滝に身を投じ たという伝承が残っている。

 

監修・文/中井均
(『歴史人』2021年5月号 「縄張図と復元図から紐解く戦国の『山城』『平山城』」より)

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