江戸と京を結んだ名古屋の『七里の渡し』─尾張の海の玄関口として東海道最大の宿場町として─
名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅⑨
■交通の要衝、また軍事的要所となりにぎわった尾張の宿場町・熱田宿

「東海道 宮図」江戸時代、大流行した「お伊勢参り」の玄関口ともなった熱田宿。船を利用したのは、大名ばかりではなく、多くの庶民たちも利用し、人気の観光地となっていたといえよう。
熱田区歴史資料室蔵
現在の名古屋市熱田区一帯は、かつて「熱田湊(あつたみなと)」とよばれた。もともとは、熱田神宮の門前町(もんぜんまち)。江戸時代に東海道の宿場町となり、熱田宿(あつたじゅく)あるいは宮宿(みやじゅく)とよばれている。
慶長(けいちょう)5年(1600)の関ヶ原(せきがはら)の戦いに勝利した徳川家康(とくがわいえやす)は、江戸の日本橋を拠点に、東海道(とうかいどう)・中山道(なかせんどう)・甲州(こうしゅう)街道・奥州(おうしゅう)街道・日光(にっこう)街道といういわゆる五街道を整備すると、それぞれの街道に宿場を整備した。いずれも、江戸と地方を結ぶ重要な街道であるが、なかでも江戸と京の連絡網ともなる東海道は、最も重視されている。熱田は、東海道の江戸から41番目の宿場として定められた。
熱田宿は、東海道だけでなく、西に向かう佐屋(さや)街道のほか、大垣(おおがき)を経由して中山道・垂井(たるい)宿に向かう美濃路(みのじ)が分岐している。江戸と京の中間点に位置する熱田は、たんなる交通の要衝(ようしょう)にとどまらず、軍事的にも重要な場所であったことは言うまでもない。そのため、家康は名古屋城に九男の徳川義直(よしなお)をおき、熱田を管轄させたのである。
東海道は、基本的には陸路である。しかし、熱田宿と桑名(くわな)宿の間は渡船(とせん)を利用した。東海道が伊勢湾の海上を通ったためである。そうした船の渡船場(とせんば)として整備されたのが熱田の「七里の渡し」であった。熱田宿は、参勤交代する大名も利用する宿場であったが、もちろん、庶民も利用している。特にお伊勢参りが江戸時代に流行すると、その玄関口となっている。こうして、熱田宿は、門前町というよりも、むしろ宿場町としても発展していくことになったのである。

東海道五十三次家康によって京と江戸を結ぶために整備された東海道。歌川広重の浮世絵で知られるこの街道は、大名の参勤交代や公家たちの移動路に使用された。そのため、熱田宿には庶民だけでなく、上流階級の人々も宿泊する施設があった。
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