近世城郭の最高峰! 徳川家康が築いた名古屋城 ─理想的な縄張り! 全国から集めた職人の手による名城─
名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅⑦
日本屈指の巨大都市である名古屋の中心に、金鯱を掲げ、そびえる名古屋城。天下人・徳川家康の号令により築城されたこの巨城は、400年以上にわたり名古屋の象徴であり続けている。近世城郭の傑作と評される名古屋城に迫る。
■近世城郭の到達点! 防備と機能性をあわせ持つ城

イラスト/香川元太郎
名古屋城は、慶長15年(1610)、徳川家康(とくがわいえやす)が9男・義直(よしなお)の居城として築いたことに始まる。古来、尾張(おわり)の中心は清須(きよす)であったが、家康は熱田(あつた)から続く台地の北西端に位置する那古野(なごや)城の故地(こち)に、新規で築城したのだった。
城は、平地に築かれた平城(ひらじろ)、丘陵(きゅうりょう)に築かれた平山城(ひらやまじろ)、山地に築かれた山城(やまじろ)に区分されるが、名古屋城は平城に分類されることが多い。しかし、台地の突端に立つため、平山城に区分するのが妥当である。
堀で区画された平坦地を曲輪(くるわ)といい、曲輪の形状は、究極的には円形が理想とされた。そのため、近世において曲輪の名前は、「丸」をつけて呼ばれている。名古屋城の曲輪は本丸を中心に配置されており、本丸の南東に二之丸、南西に西之丸、北西に御深井丸(おふけまる)が取り囲む。そして、さらに南から東にかけて三之丸が囲むという構造になっている。
こうした曲輪などの配置を縄張(なわばり)というが、戦国時代の城は、自然の地形を生かし、わざと複雑な縄張にしていた。これに対し、名古屋城の縄張は、曲輪の形状も直線を多用した矩形(くけい)であり、ほかの城に比べると極めて単純である。とはいえ、防御に劣るというものではなかった。
曲輪の塁線(るいせん)は石垣で構築されているうえ、要所で屈曲させており、近づく敵を射撃できるようにしていた。しかも、塁線上には多門櫓(たもんやぐら)を設け、隅部は天守(てんしゅ)や重層櫓(じゅうそうやぐら)を配している。自然の要害性を人工的に再現していたのが名古屋城であり、これは近世城郭の到達点ともなっている。