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名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅

江戸と京を結んだ名古屋の『七里の渡し』─尾張の海の玄関口として東海道最大の宿場町として─

名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅⑨

■東海道随一のにぎわいを誇った「熱田宿」と「熱田湊」

古来より歴史を紡ぐ
熱田の地は東海道の要所に

東海道中図

「東海道中図」熱田の宿場町は、尾張の中心である名古屋城下からは独立したひとつの大きな町として繁栄。熱田神宮の門前町としても、人々の崇敬も集めた。
熱田区歴史資料室蔵

 熱田は、かつて豊かな田を意味する厚田と書かれていた。あるとき、落雷により樹木が燃えて一帯の田が熱くなったことから熱田と書かれるようになったとも伝わる。
 熱田は、古くから熱田神宮の門前町として栄えた。熱田神宮は、もともとは熱田社とよばれていたもので、明治時代になって神宮号を頂いている。神話の時代、東征(とうせい)を命じられた景行(けいこう)天皇の皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)が、帰途に草薙(くさなぎ)剣を残して亡くなった。そのため、遺品の草薙剣を祭神として祀ったのが熱田神宮の始まりとされる。
 以来、熱田神宮の宮司は、朝廷ともつながりをもち、政治的・宗教的な力をもっていた。源頼朝(みなもとのよりとも)の実母も、熱田大宮司・藤原季範(ふじわらのすえのり)の娘である。季範の後裔は千秋(せんしゅう)氏を名乗り、源氏に従って武士団を形成。鎌倉時代から室町時代にかけて、熱田は千秋氏による支配のもとで繁栄している。
 しかし、戦国時代になると、那古野(なごや)を攻略して古渡(ふるわたり)城を居城にした織田信秀(おだのぶひで)の支配下におかれることになる。信秀は、千秋氏を利用するとともに、海運業に従事した加藤氏を重用して経済的にも発展させていく。
 当時の加藤氏は二家に分裂しており、当主が図書助(ずしょのすけ)を名乗った家を図書助家といい、当主が隼人佐(はやとのすけ)を名乗った家を隼人佐家という。なお、それぞれの屋敷があった場所の関係性から、図書助家は東加藤、隼人佐家は西加藤とよばれている。それぞれの屋敷は広大で、水堀と土塁に囲まれたとも伝わるが、現在は市街地化していて遺構は残されていない。ちなみに、人質として松平広忠(まつだいらひろただ)の子・竹千代(のちの徳川家康)が信秀のもとに送られてきたとき、竹千代は東加藤の屋敷に預けられている。
加藤図書屋敷跡

加藤図書屋敷跡織田氏の命で熱田を整備した加藤図書。家康は幼い頃、加藤家居城・羽城に幽居していたと伝わる。

 関ヶ原の戦い後、東海道に五十三次が整備された際、熱田は江戸から数えて41番目の宿場となる。そして、江戸時代にお伊勢参りが盛んになると、熱田宿は、玄関口としても繁栄することになった。
 熱田宿から京に向かう場合、東海道は陸路ではなく海路をとる。というのも、陸路では木曽(きそ)川・長良(ながら)川・揖斐(いび)川のいわゆる木曽3川を渡河(とか)しなければならなかったためである。時間を短縮するため、東海道は、海路を用いて伊勢の桑名につなげられた。そのための渡船場となったのが、熱田の「七里の渡し」である。ちなみに、街道に海路を使うのは、珍しいことではない。古代の東海道は、三浦半島から房総半島に海路で渡るものだった。だから、房総半島の中部が京に近い上総国、房総半島の北部が京から遠い下総国と名付けられているわけである。「七里の渡し」も、徳川家康による東海道の整備に際して開通したわけではない。古くからの海路を、新たに整備したものである。
七里の渡しの航路

七里の渡しの航路満潮時の陸地沿い航路が約7里(27㎞)、干潮時の沖廻り航路が約10里(39㎞)であった。
地図/アトリエ・プラン

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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