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名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅

現存する名古屋城の3大櫓に迫る! ─400年の時を越え残った日本最大級の遺宝─

名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅⑧

■名古屋城の現存3櫓を解き明かす
~3層としては日本最大規模の櫓から全国でも珍しい櫓など~

本丸に侵入する手段を封じた櫓たち
曲輪の周囲の防御はまさに鉄壁
 城の中に建てられた戦闘の拠点となる建造物が櫓である。櫓は、もともとは「矢倉」あるいは「矢蔵」と書かれていた。つまり、平時には矢を保管しておきながら、戦時には矢を射る建造物となっている。江戸時代には、主に倉庫として利用された。
 櫓には、単独で建てられている櫓のほか、塁線上に建てられる多聞櫓があった。多聞櫓の内部は長屋なので、兵が移動することも可能である。単独で建てられる櫓は、隅櫓として曲輪(くるわ)内の4隅に建てられることが多く、方位を冠して呼ぶ。名古屋城の隅櫓も、方位を冠して呼ばれ、三之丸を除くすべての曲輪に建てられた。
 曲輪の周囲に隅櫓や多聞櫓を配しているのは、曲輪に接近する敵を射撃するとともに、敵による曲輪内への侵入を阻むためである。一般的に、曲輪の隅部には櫓をおき、櫓と櫓との間は土塀にしている城が多い。しかし、名古屋城の本丸は、西北隅の天守を中心として、残る3方に隅櫓をおき、それぞれを多聞櫓でつなげていた。これでは敵も本丸に侵入する手段がない。名古屋城は、縄張(なわばり)を複雑にしていない代わりに、曲輪の周囲の防御はまさに鉄壁であった。
 本丸の隅櫓は、いずれも2層3階でかなり大きい。一般的に、隅櫓としては2層2階が多く、なかには1層の平櫓もある。残念ながら東北隅櫓と多聞櫓は失われているが、東南隅櫓と西南隅櫓が現存する。
 東南隅櫓は、二之丸に侵入した敵を迎え撃ち、本丸の大手口にあたる南門を守る役割を担った。2層3階の櫓で、2階に石落しを設け、近づく敵を射撃する構造になっている。
 西南隅櫓は、西之丸から本丸に向かう敵の進軍を阻むために設けられていた。名古屋城の西之丸の榎多御門(えのきだごもん)からの登城路にあたるため、軍事的に堅固なことはもちろん、破風で華麗に装飾している。
【西南隅櫓】
西南隅櫓

東西約11.8m 南北約13.5m高さ約14.1mと大規模。1層目の屋根がなく、2層櫓に見える珍しい形式。上下4方に屋根や庇を設けた入母屋造、平瓦と丸瓦を合わせた本瓦葺き。名古屋城総合事務所提供

石落し

石落し下方に開口し、真下方向にいる標的を攻撃する設備である。写真/岡 泰行

 二之丸には、北東・南西・南東の3方向にLの字型の隅櫓があり、南側の塁線上、西南隅櫓と東南隅櫓の中間に太鼓櫓が存在していた。しかし、明治維新後に取り壊されたため、現存する櫓はない。
【西北隅櫓】
西北隅櫓

3層櫓の中では日本最大規模の建築として貴重。大きさは東西約13.9m南北約16.9m 高さ約16.2m。各面には三角形の小型の屋根である千鳥破風が設けられている。名古屋城総合事務所提供

名古屋城

壁の仕組み一見、単純に見える壁は実は丁寧に塗りこまれている。写真/岡 泰行

 御深井丸(おふけまる)には、2基の櫓が存在していた。このうち、西北隅櫓が現存している。この櫓は3層3階で、ふつうの城なら天守相当の規模である。徳川家康による清須越(きよすごし)の際、清洲城から移築されたといわれている。解体修理により資材を転用した痕跡は見つかっているので、清洲城から移築されてきた可能性は十分にある。

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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