「天下一の律義者」と家康に評された名将・佐竹義宣を生んだ常陸源氏の正当を生きた佐竹家とはどんな家⁉【戦国武将のルーツをたどる】
戦国武将のルーツを辿る【第21回】
日本での「武士の起こり」は、遠く平安時代の「源氏」と「平家」に始まるという。「源平」がこれに当たるが、戦国時代の武将たちもこぞって自らの出自を「源平」に求めた形跡はある。だが、そのほとんどが明確なルーツはないままに「源平」を名乗ろうとした。由緒のあるか確たる氏素性を持った戦国大名は数えるほどしかいない。そうした戦国武将・大名家も、自分の家のルーツを主張した。絵空事も多いが、そうした主張に耳を貸してみたい。今回は常陸源氏の正当を生きた「佐竹家」の歴史にせまる。

佐竹義宣(国文学研究資料館蔵)
12世紀初頭、「前九年の役」「後三年の役」を経て、清和源氏の新羅三郎・源義光(みなもとのよしみつ)は常陸介となり、常陸国(茨城県)にその勢力を伸ばした。この過程から、常陸・武田に住んだ「武田氏」が出て、やがて甲斐国(山梨県)に進出して「甲斐源氏」となっている。義光の孫・昌義が常陸・久慈郡佐竹郷に本拠を構え「佐竹氏」を名乗った。
平家と源氏が戦った「源平合戦」では、昌義の2男・隆義が平家に与したことから頼朝の怒りを買い、佐竹氏は所領を没収された。だが、文治5年(1189)の「奥州藤原氏追討」では佐竹秀義が頼朝に従って参戦し、その後、御家人として常陸に所領を与えられ、常陸源氏は生き延びた。
執権北条氏の鎌倉幕府が滅亡すると、佐竹貞義・義篤父子は足利尊氏に属して戦った。その結果、さて菓子は常陸守護に補任される。 15世紀に入ると、その家督相続を巡って内訌が生じ、佐竹支族の山入氏らとの抗争が始まった。その抗争は100年以上も続き、やっと永正元年(1504)になって、佐竹義舜(よしきよ)が、陸奥国磐城郡(福島県いわき市など)の豪族・岩城氏の支援を得て山入氏を滅ぼした。義舜は、筆致奥七郡の統一を開始して、北関東の覇者となった。
その後、義昭・義重父子の時代には、常陸中南部、陸奥南部まで進出するなど、勢力を拡大していったが、その途中で小田原・北条氏や陸奥・伊達氏などと領土を巡ってぶつかり合い戦いは続いた。それでも佐竹氏の領土は、義重の時代には常陸奥七郡に加えて、奥州白川領までを支配していた。義重(よししげ)から17歳で家督を相続して21代当主となった佐竹義宣(よしのぶ)は、3歳年長の伊達政宗と4年以上も激しい死闘を繰り広げてきた。
天正18年(1509)3月、天下人となっていた豊臣秀吉は、関東の覇者・北条氏政・氏直父子を討つために、小田原征伐を敢行した。義宣、政宗の2人にも合戦参陣への号令があった。2人は戦いの真っ最中だったが、義宣はいち早く4月下旬には小田原に参じた。政宗は遅れて6月初めの参陣となった。
この参陣の時間のズレが、合戦後の2人の妙案を分けた。義宣は常陸1国と奥州・下野などに併せて54万石という大所領を与えられた。政宗は会津領を召し上げられ、旧領のみの58万石の安堵ということになった。
8年後には2人の立場が逆転する。秀義が病死して、徳川家康が台頭。慶長4年(1600)9月の関ヶ原合戦では、西軍の石田三成と親しかった義宣は、父祖からの親交もあった会津・上杉景勝との関係も考えて、西軍に付く意志を見せた。しかし、家康から「上杉を討て」という書状もあって、いずれに付くか迷いに迷った。
そうこうするうちに、決戦は1日で西軍の大勝に終わる。どっちつかずの状態でいた義宣は、家康の怒りを買い、戦後2年目の慶長7年4月、義宣は秋田20万石への左遷となる。義宣はまだ32歳であった。しかし、その後も名君として生き、後の「大坂の陣」では、徳川軍として参戦し、冬の陣・最大の激戦となった今福・鴫野の戦いでは、豊臣方の後藤又兵衛・木村重成隊を、上杉軍とともに撃退している。そして、佐竹氏は秋田藩として明治維新まで存続した。
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