×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画
歴史人Kids
動画

小泉八雲が愛した「狐の石像(石狐)」にまつわる謎 稲荷神社と狐の不思議なつながりとは?

日本史あやしい話


小泉八雲が大好きだった狐の石像。それは稲荷神社の神の使いでもあるが、歴史をたどれば、渡来系氏族の秦氏や、果てはインドの神・荼吉尼天まで関わっていることを知らされて驚かされてしまうのだ。いったい、どういうことなのだろうか?


 

■素朴な狐の石像が大好き

 

 朝の連続テレビ小説『ばけばけ』で、ヘブン先生が、県知事の娘・リヨと城山稲荷神社へ出かけた場面を覚えておられるだろうか。松江城の北に位置するこの神社、史実としても小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが毎日のように散歩していたところで、境内にびっしりと並ぶ狐の石像に目を奪われたことは、ドラマの中だけの話ではなく、本当のことであった。大小様々な狐の石像、その数、おそらく千をも優に超えると思われるが、中でも八雲が好きだったのが、2体の少々顔や身体の一部が欠けた狐像であった。荒削りながらも赴くままに彫り込まれた素朴さに、心惹かれたのだろう。

 

 神社の創建は1639年。徳川家康の孫・結城秀康の子に当たる松平直政公が松江藩へ転封してきた、その翌年のことである。直政公の夢枕に、稲荷新左衛門なる美少年が立ち現れて、「場内に住むところを設けてくだされば、城下一円を火災から守りましょう」と申し出たのが始まりだったとか。これに心を動かされた直政公が、稲荷神社を新設。火の災いから逃れることができた人々がお礼にと、稲荷神社の守り神のように思われていた狐の石像を持ち込んだという訳であった。以前紹介したお地蔵さんといいこの狐像といい、八雲は屈託のない素朴さそのものに、心惹かれる人だったようである。少々気難しそうに思われがちであるが、心の内は実にピュアー。取り繕ったり飾ったりすることが大嫌いな、実に清々しい心の持ち主だったということだろうか。

 

■狐はヒンドゥー教の神・荼吉尼天の使いだった

 

 それはともあれ、ここで注目したいのが狐のことである。なぜ稲荷神社に狐像が当たり前のように置かれているのか?それが気になって仕方がないのだ。まずは、稲荷神社の総本社である京都の伏見稲荷大社を紐解いて、そこから謎解きを開始するのが良さそうだ。この神社に祀られているのは、いうまでもなく、稲荷大神という稲など穀物の神である。この神、一説によると、『日本書紀』にも取り上げられた倉稲魂命であるというから、歴史は相当古そうである。

 

 では、倉稲魂命を紐解いてみよう。倉稲魂命とは読んで字の如く、倉に蓄えた稲の霊。つまり、稲に宿る神に他ならない。ちなみに『日本書紀』を見てみると、伊奘諾尊と伊奘冉尊が「飢えて気力の衰えた時」に生まれたことになっている。「腹が減った時」に生まれたとなれば、当然のことながら、食べ物の神としての性格を持ち合わせているとみなすのが自然だろう。

 

 ただし、『古事記』では話が異なる。ここでの神の名は、宇迦之御魂神。父は須佐之男命、母は大山津見神の娘・神大市比売だとか。天照大御神の弟と山神の娘という不思議な取り合わせゆえに、性格そのものも汲み取り難いものがありそうだ。ただし、同母兄の大年神が穀物の神であることを鑑みれば、この神もまた穀物あるいは食べ物と関係があることは間違いないだろう。また、伊勢神宮の外宮に祀られる豊受大神や、吐き出したものを食べさせて月読尊に殺された大気津比売神なども同神と見なされることもあるから、何とも複雑である。

 

 この稲荷大神(倉稲魂命、宇迦之御魂神、豊受大神、大気津比売神)を祀るのが伏見稲荷大社であるが、その創建に携わった一族のことをご存知だろうか?それが、渡来系氏族の秦氏であった。秦氏といえば、秦の始皇帝の末裔で、後に朝鮮半島へと移り住んだ秦氏のうち、4〜5世紀頃に日本へと移り住んだ弓月君の末裔だと見られている。おそらく、豊前(福岡県東部と大分県北部)に上陸した後、山背(京都府南部)や河内(大阪府東部)、摂津(大阪府中北部と兵庫県東南部)などに定着して勢力を拡大していったのだろう。中でも勢力の大きかったのが葛野(京都市左京区太秦)と紀伊(京都市伏見区深草)に定着した集団で、前者が築いたのが広隆寺、後者が築いたのが伏見稲荷大社であった。全国に3万社もあるといわれる稲荷神社、その総本社の創建に携わった秦氏の勢力がいかに大きかったか、これだけを見てもお分かりいただけるはずである。

 

 では、その稲荷神社に、狐がいったい、どのように関わっているのか?いよいよ本題に取り掛かりたい。その謎解きの鍵を握るのは、ズバリ、インドに伝わるヒンドゥー教の女神・荼吉尼天である。荼吉尼天といえば、元は人肉を食う魔女だったというから恐ろしい。それがどのような経緯を経たものか、いつの間にか農耕の女神に祭り上げられたようである。

 

 この女神が乗り物としていたのが白い狐だったことが、狐が神の使いと見なされるようになった始まりのようだ。この神が仏教に取り入れられ、さらに日本に伝わってきた際に、神道の神・稲荷神と習合。その時から、今度は狐が稲荷神の使いと見なされるようになったと考えられるのだ。加えて、狐が稲を食い荒らすネズミを食べてくれる益獣だったということも、稲の神として取り入れられることに一役買ったに違いない。ただし、「稲が成る」ことが転じて稲荷となったことは間違いなさそうだが、稲荷の名を冠した稲荷寿司に巻かれた油揚げが狐の好物だったとのお話は、少々まゆつば物というべきか。肉食の狐が油揚げを好んだとは思い難いからだ。

 

 ともあれ、話が小泉八雲の狐の石像好きからヒンドゥー教の女神へと話が大きくそれてしまった。謎多き狐のことゆえ、取り止めもなく話が展開していきそうで、話の幕を下ろすのは難しい。「狐の嫁入り」「信太妻」「おさん狐」「九尾の狐」「狐火」「狐憑き」等々、狐に関わる物語の数は数限りなく存在するからである。機会があればその一つ一つを詳しく解き明かしていきたいとは思うのもの、果たしてそれを実現させることができるかどうか。夢見ることにしておこう。

小泉八雲のお気に入りだったのが、城山稲荷神社の境内に置かれたこの2体の石狐であった。
撮影:藤井勝彦

KEYWORDS:

過去記事

藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

最新号案内

『歴史人』2026年1月号

Q&Aで知る「国宝」の日本史

今年、大きな注目を集めている「国宝」制度は、いつ頃誕生したのか? 明治政府樹立後のその契機から、保護の仕組みが誕生した今日までの歴史や雑学を、Q&A形式で解説していく。