豊臣家を裏で支えた秀長の人物像とは?
その素顔を知るべく郡山城と城下町を訪ねる
2026年1月3日放送の「偉人・敗北からの教訓」(BS11)では、秀吉の天下統一を支えた豊臣秀長の実像を伝える。奈良県大和郡山を訪れた、同番組進行の中西悠理さんは秀長をどう捉えたのだろうか?
■謙虚で実直な人柄を持った民衆目線の大名

秀長が居城とした郡山城跡。大和郡山市地域振興課観光戦略室提供
豊臣秀長(とよとみひでなが・1540~1591)といえば、兄・秀吉(ひでよし)の天下統一事業を陰から支えたNo.2の代表格。天正(てんしょう)13年(1585)、46歳のとき和泉(いずみ)・紀伊(きい)・大和(やまと)におよぶ百万石以上を領有、大出世を遂げたことで知られる。しかし彼の性格や人間性については兄に比べ、語られることが少ない。番組進行の中西悠理(なかにしゆうり)さんは、現地でどう感じたのだろう。
「今回の番組ロケで、まず秀長が築いた郡山(こおりやま)城を訪ねました。秀長が行った町割りがベースになり、江戸時代には『箱本十三町(はこもとじゅうさんちょう)』という自治制度として受け継がれました。秀長が庶民の力を大切にし、町を盛り上げていこうとした思いが徳川の世になっても受け継がれていたことからも、秀長が固めた街づくりの基礎がいかに優れていたかがうかがえました」
低い身分から兄弟で成り上がった秀長。民とともに歩もうとする秀長の思いを感じたとも中西さんは話す。
「百万石余の大名になっても民の目線を忘れない謙虚さや実直さが、周りの武将から一目置かれた理由のひとつではないかと思いました。奈良県高市(たかいち)郡では秀長の木像を安置する壺阪寺(つぼさかでら)を訪問しました。その秀長像が、ほんのりと笑顔を浮かべていることも印象深かったです。江戸時代になってから造られた木像なのですが、徳川の世でも造ることを許されたのは彼の人徳を表しているようで『秀吉の弟』ではなく、豊臣秀長自身に出会えた気がするロケでした」

壺阪寺を訪れる中西悠理さん
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