偉大なる東海の覇者[今川義元]の家系は執権北条家から継がれた名家として、源氏の素姓正しい足利一門の一族でもあった【戦国武将のルーツをたどる】
戦国武将のルーツを辿る【第10回】
日本での「武士の起こり」は、遠く平安時代の「源氏」と「平家」に始まるという。「源平」がこれに当たるが、戦国時代の武将たちもこぞって自らの出自を「源平」に求めた形跡はある。だが、そのほとんどが明確なルーツはないままに「源平」を名乗ろうとした。由緒のあるか確たる氏素性を持った戦国大名は数えるほどしかいない。そうした戦国武将・大名家も、自分の家のルーツを主張した。絵空事も多いが、そうした主張に耳を貸してみたい。今回は東海一の弓取りと名を馳せた今川義元の家の歴史にせまる。

桶狭間古戦場の今川義元像
室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)が「室町殿(足利氏)の後子孫たへなば(絶えるようなことがあれば)、吉良に継がせ、吉良もたへなば。今川に継がせよ、と仰せられたり」という伝えが、今川家にはあったという。
実際に、今川氏は、足利家から分かれた吉良氏のさらに分派であった。つまり、足利一門としての家格を持ち、細川・斯波・畠山の「三官領家」と同族ともいえた。先祖を遡れば、源氏の正統「八幡太郎義家」に行き着く。
鎌倉時代に足利氏は、三河(愛知県)・上総(千葉県)両国の守護であった。始祖の源義家(よしいえ)から4代目に当たる足利義氏(よしうじ)が、長男・長氏(おさうじ)を三河国吉良荘に住まわせたことから地名を取って「吉良氏」が始まった。のちに、その吉良荘に隣接する今川荘に隠居した長氏は吉良本家を2男・泰氏(やすうじ)に継がせた。そして長男・国氏(くにうじ)には今川荘を与えた。これが「今川氏」の始まりとなった。
2男でありながら泰氏が本家・吉良を継いだのは、その母が執権北条氏のトップ・北条義時(よしとき)の娘であったことが理由であった。当時の政権トップの娘を母に持つ2男・泰氏が、本家「吉良氏」を継承したのであったが、長男でありながら、吉良本家を告げなかった国氏には、不憫に思った父・長氏から、宝剣「龍丸(たつまる)」が与えられた。
この宝「龍丸」は、八幡太郎義家ゆかりの「宝物霊剣」とされ、その後は今川氏の宝剣として相伝されていく。それは、今川氏の嫡男の幼名が代々「龍王丸(たつおうまる)」であることと無縁ではない。
戦国時代、今川義元(いまがわよしもと)が「源氏」としての誇りを持ち、京都を見据えた動きを見せたのも、無理はなかった。「その辺りの、成り上がり武将とは違う」という矜持を持ち続けたのにも、そうした意味があった。
その後、今川氏は吉良氏をしのぎ、遠江守護などになって繁栄するが、代々の当主には浮き沈みも激しかった。そうした間に「観応の擾乱」「中先代の乱」「建武の中興」「南北朝分裂」「応永の乱」「上杉禅秀の乱」「結城合戦」「応仁・文明の乱」といった鎌倉幕府の滅亡や足利幕府の成立などい絡むいくつかの戦乱を経て、今川氏は東海地方に確固たる勢力を築き上げたのである。
時は移り、義元の父・今川氏親(うじちか)は6歳で父を失い、元服までを一門の長ともいえる人物(小鹿範満/おしかのりみつ)が代行した。ところが、氏親が15歳になり元服の年齢になっても小鹿は、代行の座を下りようとしなかった。つまり「守護代」という権力の座に居座ろうとしたのだった。この時に、氏親には母・北川殿の弟、叔父に当たる伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)が、義憤に駆られて小鹿から守護の座を取り戻そうと動いた。
文明19年(改元されて長享元年、1487)11月、新九郎は、今川本家と氏親とに心を寄せる国人や家臣団、武将たちを率いて今川館を急襲し、小鹿を討ち取った。そして氏親は7代目の今川当主になった。
氏親が娶ったのが公家・中御門家の娘であった。この娘が、義元の母となり、氏親死後には「尼御台」と呼ばれる「寿桂尼」(じゅけいに)となる。今川家は、地方の戦国大名としては京都との繋がりが深く、今川家が京都の有名な寺院や僧侶、公家、歌人などの文化に染まっていったのはこうした縁による。
氏親が没した後に家督を継いだ嫡男・氏輝が急死すると、その後継を巡って内訌が勃発した。「花蔵の乱」である。寿桂尼の2男・義元と、側室の子である玄広恵探との争いは、今川家内を二分する戦いとなった。寿桂尼・義元には軍師ともいえる存在・太源雪斎があり、結果としてこの内訌は、義元側の勝利となった。義元は今川家9代目の当主として君臨する。
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