「手を握ったまま開かない子ども」の謎 江戸で起きた奇怪な「生まれ変わり」の物語
世にも不思議な江戸時代③
望んでいるのに10年以上子どもに恵まれない修験者がいた。ある日、修験者の目の前に現れた僧の姿を追って行くとそこには……。
■江戸時代の渋谷で起きた奇妙なできごと
今の渋谷は、日本を代表する繁華街。最先端の流行を発信する街として、日本ばかりでなく、世界中から人々が訪れる。しかし、江戸時代は、江戸御府内ではなく、修験者が住んでいるようなひなびた場所であった。
江戸時代の後半、文政の頃のことである。渋谷のある寺に修験者が住んでいた。妻を迎えて10年以上になるが、どうしても子どもを授かることができなかった。
ある日、修験者は用があって芝に出かけた。そこから帰るために駕籠に乗っていると、目の前に5歳くらいの子ども連れた僧が現れた。僧は、「この子はそなたの子となるべき方である」という。慌てて周りを見回したが、どうやら駕籠の中で寝てしまったらしい。ふと、駕籠の外を見ると小さな棺を担いだ葬列が目に入った。
男は駕籠かきにそっとその後をつけるように頼んだ。しばらくすると、葬列は芝の金地院に入っていった。修験者は、門前で駕籠をおり、少し離れたところで再生の法を施した。帰りにそれとなく聞いてみれば、七戸藩南部家家臣某の三男が5歳で亡くなりその葬儀だったという。
寺に帰った修験者は、米と金を使いの者に持たせ金地院に行かせた。金地院では、その寺から米や金を貰ういわれはないと一度は断った。しかし、今日埋葬された子どもの供養のためにと伝えると、それならばと受け取った。
その次の年の正月ごろに、修験者の妻が身ごもったようだった。10か月たったころ、不思議なことが起こった。亡くなった子どもの戒名を書いて毎日祈っていたのだが、その紙が見当たらなくなった。使用人などに聞いてもだれも知らないという。それから3日ほどして妻は無事に男子を出産した。これはあの子どもの生まれ変わりだろうと、修験者夫婦は喜びあった。
さて、この子どもだが、何日たっても両の手を握ったまま、一向に開こうとはしない。ふと、修験者は思い立ち、金地院に出かけた。あの子どもの墓の土で子どもの手を洗ったら、開くのではないかと思ったからだ。金地院で訳を話すと、墓の持ち主の南部家家臣某の許可を取ってほしい、とのこと。金地院で聞いた修験者は、南部家家臣某の家へと向かった。南部家家臣某宅で、今までことを話すと、家の者たちがみな喜んで、墓の土を持って行ってよいと許可してくれた。そればかりか主である南部家家臣某が行くという。修験者と南部家家臣某は連れだって金地院に行ってみると、子どもの墓石には、見えなくなっていた修験者が子どもの戒名を書いた紙が貼り付いていた。
これを見た金地院の住職も「その子どもを見てみたい」というので、墓の土を持って修験者の寺へと向かった。修験者が金地院から持って帰った土で子どもの手を洗うと、それまで握ったままの手が開いた。と、そこには南部家家臣某の家の家紋にそっくりの痣があった。南部家家臣某も金地院の住職も、この子どもは先に亡くなった子どもの生まれ変わりで間違いないと納得した。
後でわかったことだが、修験者が見た僧は、金地院に立っていた地蔵にそっくりだったという。これをきっかけに南部家家臣某と修験者は親戚付き合いをするようになり、関係は長く続いたと伝わる。

金地院は東京タワーの向かいに現存する。元和2年(1619)に江戸城内に建立され、寛永15年(1638)に現地に移った。この奥に今でも亡くなった子どもの墓があるのだろうか。