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「内助の功」の第1人者として歴史に名を残し、夫・山内一豊のために生きた妻【千代】という戦国の女性に迫る!

歴史を生きた女たちの日本史[第14回]


歴史は男によって作られた、とする「男性史観」を軸に語られてきた。しかし詳細に歴史を紐解くと、女性の存在と活躍があったことが分かる。歴史の裏面にあろうとも、社会の裏側にいようとも、日本の女性たちはどっしり生きてきた。日本史の中に生きた女性たちに、静かな、そして確かな光を当てた。


 

高知城に立つ山内一豊の妻・千代の像

 

「内助の功」「妻の鑑」などの言葉は今では死後に近いかも知れない。しかし歴史上ではよく使われてきた言葉であり、その「内助の功」の第1人者が、山内一豊(やまうちかずとよ)の妻・千代(ちよ)であり、NHK大河ドラマの主役のモデルともなった戦国の女性である。

 

 江戸時代の書物『藩翰譜』(新井白石著)や『常山紀談』(湯浅常山著)などによれば、織田家に一豊が仕えていた時に「東国一の駿馬」という名馬を商う者があった。誰も欲しいが金貨10枚(約180万円)は高くて無理である。とはいえ山内一豊もそのひとり。すると妻の千代が鏡箱の底から金貨10枚を出して「お使い下さい」という。「いつか夫の一大事に使うように、と嫁ぐ時に父が渡してくれたお金」だという。

 

 山内一豊は、この妻のお陰で名馬を買うことが出来て馬揃えでは、天下人・織田信長の目に止まり、出世の糸口になった、というエピソードである。

 

 だが、これは「お話」であって事実ではない。歴史を見ると、一豊は織田信長には仕えていないし、千代の父親は娘が嫁ぐ前に死亡している。とはいえ、これに付随した逸話はあるらしく『治国寿夜話』(著者不明)という書物では、名馬でなく豊臣秀吉の北国遠征の軍役の準備に使ったという。軍役の費用に使ったのは千代の母が形見にくれたお金であっということである。それも金貨10枚ではなく3枚ほど(約50万円)であったとする。

 

千代の助けで馬を手にしたという逸話をモチーフにした山内一豊夫妻像

 

 千代については、その名前の由来や出自について諸説あり、まだ定説とはいえない部分が多くある。名前にも「千代」と「まつ」の2つが伝えられる。千代の父は近江の小谷城主・浅井長政の家臣・若宮友興(わかみやともおき)の娘という説では、父親が戦死した後、1人娘の千代が家督を相続した。母が亡くなった後に母の妹の嫁ぎ先である不破氏を頼った、という。

 

 また、郡上八幡の城主・遠藤盛数(えんどうもりかず)の3女、とする説があって、それが有力になっている。その父・盛数は斎藤龍興に味方をして信長との合戦で戦死したという。以後、千代は近江に落ち延びた。その近江・宇賀野(滋賀県米原市近江町)に落ち延びて、裁縫を教えて暮らしを立てていたのが、一豊の母・法秀院であり、そこに裁縫を習いに来ていた千代の、利口で優しい人柄に惚れ込んだ法秀院が、息子・一豊の嫁にした。

 

 その頃、一豊は豊臣秀吉の家臣団の1人で、順調に出世していた。そして千代を妻にしてからは、秀吉という人物の下で今まで以上に出世の道を歩むことになる。そして掛川5万石の大名になっていた一豊は、秀吉没後は「三成憎し」の武闘派に属し、慶長4年(1600)9月の関ヶ原合戦では東軍に身を置いた。

 

 石田三成は、大名・武将の妻などを人質として大坂城内に収容しようとした。細川忠興の妻・ガラシャ夫人が自刃したのもこの時である。一方で千代は、頭脳プレーに出た。大坂方から「味方になるように」との書状を承けた千代は、大坂の情勢を知らせる文箱と密書(「あなたは徳川様に忠節をお励み下さい。いざとなれば私は自害しますから」と書かれていた)を家臣に持たせて下野・小山にいる一豊に届けた。この文箱を一豊は家康に見せて、これが関ヶ原勝利の下地になった。

 

 関ヶ原合戦の後、一豊は土佐20万石に抜擢された。千代の「内助の功」は、こうして出世という「形」になった。一豊没後に「見性院」となる。千代は元和3年(1617)12月病死する。60歳であった。

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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