九州制覇目前で名家を傾けたキリシタン大名【大友宗麟】
知っているようで意外に知らない「あの」戦国武将たち【第31回】

大友宗麟像
北九州6ヵ国を制圧し、残るは島津氏が領した南九州の日向・薩摩・大隅だけになり、その制覇まで目論んだ大友義鎮(宗麟/おおともよししげ)は、一方でキリシタン大名であり、大村氏・有馬氏とともにヨーロッパに天正少年使節団を派遣した人物としても知られる。だが女性好きで、幼少時代からかなりな乱暴者であったともいわれる。そうした人間的な欠陥が、大友宗麟をして、家の破滅に追い遣ったともいえる。
義鎮(宗麟)は、享禄3年(1530)、大友家17代・義鑑(よしあき)の長男として豊後府内(大分市)で生まれた。幼名を塩法師丸という。だが、義鎮は先見性があり、頭も良かったが、幼少時代から気が荒く、近習を怪我させたり、自分の家臣でも少しでも気に入らないことがあると、すぐに手討ちにするなど、その性格に問題があった。こうしたことから、父・義鑑は、義鎮の弟・塩市丸(しおいちまる)が聡明であったことから、家督を塩市丸に譲ろうと考えた。そのために大友家の家臣団は、2派に分かれてしまうという分裂が起きた。
おそらく義鎮が景で糸を引いた結果であろうが、天文19年(1550)、義鎮が別府温泉に行っている間に、義鑑と塩市丸、その生母(義鑑の側室)などを義鎮派の重臣が殺した「二階崩れ(現場が二階であったことから、名付けられた)」と呼ばれる事件が起きた。
これによって大友家を相続した義鎮は、北九州とそれに隣接する本州・中国地方(安芸・周防・長門など)までを射程に入れて、快進撃を開始した。すべてが先見性(鉄砲や石火矢など新兵器を駆使する戦術を展開)のゆえであった大友家の版図は、本国・豊後の他に豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の守護職を独占し、北九州6ヵ国を支配する大大名になったのである。
永禄5年(1562)、京都・大徳寺から高僧の帷雲和尚を招いて得度・剃髪して「瑞峯宗麟」の法号を受けた。この時点では仏教徒であった。九州制覇をもくろむ宗麟は、残る3ヵ国(日向・薩摩・大隅)を支配する島津氏とぶつかった。この前年に天正6年(1578)7月に、宗麟は仏教を捨ててキリスト教に改宗する。それは、宗麟が20代の頃に、豊後国内においてキリスト教の布教を許していたことと、それが新しい西洋のもつ武器・弾薬などを得る手段にも繋がっていたことによる。キリスト教に改宗した宗麟は「ドン・フランシスコ」と洗礼名を名乗る。そして、島津使徒の決戦場・日向に向かう途中にある神社仏閣などを端から壊して回った。この時に、宗麟はキリスト教への入信を拒む正室を排して新しく夫人を迎えている。宗麟は家臣の妻を無理矢理、側室にするなどの無道も兵であった。
重臣で軍師の立花道雪(たちばなどうせつ)は再三にわたり諫言したがそれを聞き入れる宗麟ではなかった。道雪は、宗麟を見限り、大友家を去っている。 天正7年、島津軍と大友軍が激突した「耳川合戦」で、宗麟は手痛い敗北を蒙る。大友軍は2万もの死傷者を出して大敗したのだった。宗麟は、援助を豊臣秀吉に求めることになる。大友家は衰退し豊臣系の大名になった。宗麟は、失意のうちに天正15年(1587)病死する。享年57。