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大河ドラマ時代考証・平山優と戦国の激戦区!沼津の”城”をめぐる

”戦う歴史学者”平山 優とめぐる沼津の城めぐり①


 去る1月2728日、歴史学者・平山優先生による沼津市を中心とする1泊2日の戦国史跡バスツアーが開催されました。
 平山先生といえばNHK大河ドラマ『真田丸』『どうする家康』の時代考証をつとめ、講演会などもすぐに満席になる本誌でもおなじみの人気歴史学者。そんな先生の生解説付きで沼津周辺の8つの城と3つの史跡を堪能できるとあって早々に定員となってしまいましたが、ここでは行けなかった方のために、両日のツアーをレポートしたいと思います。


 

 ■織田・徳川・武田・今川・北条という戦国屈指の強者たちが争った”沼津”の地

 

 さてみなさん。沼津の「城」といえば、どこを思い浮かべるでしょうか。

 

 やはり三枚橋城ですよね。詳細は割愛しますが、沼津駅の南側一帯、狩野川沿いに大きく広がっていたこの城は、武田氏が駿河侵攻を開始したことをきっかけに、天正7年(1579年)に武田勝頼が築城し、武田水軍の拠点のひとつとしても活用されました。

 

 その後、天正10年の織田・徳川連合軍の武田領侵攻によって徳川氏が入るのですが、残念ながら遺構はあまり残っておらず、本丸があった場所も現在は中央公園になっていて碑が立つのみです。

 

中央公園に残る沼津城本丸城址の碑。公園の名称を沼津城址公園に変更する動きがあるかも?

 

 そんな三枚橋城の築城に慌てた北条氏政が駿河湾から韮山城に抜けるルートを押さえておくために造った城が、これから向かうツアー1発目の城・長浜城、そして獅子浜城といわれています。長浜城へは国道414号を駿河湾沿いに南に、途中に見える沼津御用邸記念公園や獅子浜城、あわしまマリンパークなどを窓から眺めつつ30分ほどで到着します。

 

 長浜城に着いて、まず目を引くのがこちらの安宅船の原寸大模型(表面表示)。

 

 安宅船というのは武田や北条などの水軍が利用していた軍船で、風がなくても移動できるように櫂で漕いで進む仕様になっています。

 

 さらに平山先生によれば、

 

「これで敵の船に体当たりして敵船に乗り込むんです。船の横側が板張りの壁になっていて、それで弓や鉄砲を防ぐ形になっているんですが、これが敵船に張り付くと開いて橋となり、ここから飛び移る」とのこと。水上での戦いは射撃戦よりも陸上のように刀での戦い方がメインだったんですね。

 

長浜城跡にある安宅船原寸大模型

 さて一同はいよいよ長浜城に登るのですが、これがなかなか…。上から見る安宅船模型は壮観でしたが、なかなかの傾斜度で腰曲輪に着いた頃には早くもゼェゼェ。さすが山城、小さくても侮れない。この腰曲輪はちょうど第一曲輪の下に位置するのですが、まずはここから「湊」といわれる船着き場へと向かいます。ただし、「過去に何人か落ちた人を知っていますので、くれぐれも気を付けてください」と平山先生の注意が飛ぶように、藪をかき分け着いてみると、確かに小径のすぐ先が磯になっていて、下りの勢いで降りたら落ちるかも。みなさんも訪れる際はくれぐれも注意してください。

 

かつて北条水軍がここに船付けしたと思うと感慨もひとしお。

 

 続いて見学したのは第一曲輪、いわゆる本丸です。今降りて来た道を登るのは大変でしたが、本丸からの眺望はそれはそれは見事なもの。沼津市が定期的に管理・整備しているおかげでこの景観が保たれているのですが、先生によればこの眼前の景色こそが重要なポイントであるとのこと。

 

「実はここから三枚橋城が見えるんです。つまりここから武田水軍の動きが非常によく見えたんです」

 

 遠くに見える赤と白の3本の鉄塔の真ん中の鉄塔あたりが三本橋城があったあたりだそうですが、皆さん分かりますでしょうか。ここなら武田水軍の動きは一目瞭然で、北条にとってこの長浜城がいかに重要だったのかがよくわかります。

 

 翻って周囲を見渡すと、誰が言い出したか付近の港に係留してある富豪の小型船がまるで北条水軍のように見えてくるから不思議。なので、目を閉じればほら、駿河湾から大船団で向かってくる武田水軍も思い浮かぶのではないでしょうか。……見えるぞ! 私にも敵(武田水軍)が見える!! 

 

 ここに来てこれをやるのが夢でした。皆さんもぜひやってみてください。

 

この矢印のあたりが三枚橋城です。

 

 長浜城にはもうひとつ面白いポイントがあり、それが第一曲輪と第二曲輪をつなぐ櫓(やぐら)です。先ほど遠い目をした本丸ですが、実はその入口の場所が見つかっておらず、代わりに第二曲輪に柱穴が発見されました。

 

「高低差のある二つの曲輪をどうやってつないで行き来していたのか、その推定のひとつの回答として、櫓を階段にしていたのです。当然のことながらここは最後の防御地域になりますので、この櫓は当然板張り、もしくは土塀だったはずで、この櫓の中に階段を造り、上り下りしていたのであろうと思われます」

 

 と平山先生。この階段が非常に急なのもうなずける話ですね。

 

第一曲輪と第二曲輪をつなぐ櫓。階段は非常に急だ。

 

 長浜城を後にして、続いて訪れたのは沼津市のおとなり、伊豆の国市にある韮山城へ。ご存知のようにこの韮山城は後北条の祖である伊勢宗瑞が本拠とし、2代氏綱が小田原を攻略して本拠地を移してからも重要拠点として扱われました。

 

 平山先生によると何度か改修もされており、「永禄12~元亀元年にかけての武田信玄の駿河・伊豆侵攻と、その後の勝頼による三枚橋城の造営により、韮山が直接の攻撃対象になり整備がなされたのでは」とのことです。

 

 残念ながら三の丸はテニスコートに、御座敷跡は韮山高校になってしまっていますが、二ノ丸、本丸は健在。特に二の丸、本丸を囲む切岸は非常に高く大迫力で、これはなかなか落とせそうもありません。実際、この韮山城は豊臣の小田原征伐のときも持ちこたえ、落城しませんでした。

 

韮山城。

 想像通り二の丸、そして本丸からの景色もこれまた見事で、この日は若干の曇りでも遠くまで見渡せます。先生によると手前の山の後ろにうっすら広がるのが出城山城で、その右奥の香貫大橋の右に見えるのが戸倉城だそうです。

 

「天正9年に笠原政尭の離反によって戸倉城が武田の手に渡ったため、北条は出城山城を急造しました。このことは北条にとってすごい脅威になったということですよね」

 

 出城山城と戸倉城は直線距離で2キロほどしか離れておらず、当時の北条の慌てぶりが目に浮かぶよう。ちなみに本丸からは源頼朝公が流された蛭ヶ島も望めます。

 

二の丸からの景色。武田の手に渡った戸倉城は韮山城にとっては非常に脅威だったであろう。

 

本丸。

 

 一行は再び沼津市に戻り、沼津港・千本一で美味しい魚料理に舌鼓を打った後、千本浜公園にある首塚、そして大久保忠佐の墓へ。

 

 千本浜は富士を望む美しい浜が広がる大変景観のよい場所ですが、一帯に植えられている松林から比較的若い年齢の頭蓋骨が百数十体発見されています。お骨は室町時代中期から戦国時代にかけてのもので、合戦による戦死者と学術調査で推定されていますが、「確かに天正7~8年にかけて黄瀬川と千本松原を中心に戦いがあったのは事実で、その関係だろうと考えられています」と平山先生。ただ不可解なのは、全体の3割が女性のものであったこと。つまり女武者がいた? 

 

 一方で大久保忠佐の墓は沼津市の旧東海道筋・妙傳寺にあります。兄の忠世とともに長篠・設楽原の合戦や小牧・長久手の戦いなどで活躍し、慶長6年には沼津藩を立藩して沼津城(三枚橋城)の城主となりましたが、死去後に沼津藩は無嗣断絶で改易となってしまいました……。

 

首塚は地元の人たちによって丁寧に弔われているとのこと。

 

大久保忠佐の墓がある妙傳寺には忠佐が使用した陣太刀や槍なども所蔵されているそう。

 

 少し寂しい気持ちになりつつも、初日のラストは清水町にある泉頭城へ。現在は湧水湧き出る柿田川公園となり、遺構も多くは残されていないのですが、公園奥の船着き場は必見です。そもそも泉頭城は武田勢に備えるために北条氏政が築城したと言われていますが、柿田川は下流の戸倉城のところで狩野川に合流し、その狩野川は駿河湾へ流れます。つまり泉頭城は駿河湾と内陸を結ぶ運ぶ水上交通の要衝だったわけです。「しかし武田勝頼が三枚橋城を築いたことで、水上交通権も武田に奪われます。三枚橋城がいかに北条にとって邪魔だったかが非常によく分かりますよね」(平山先生)

 

 さらに先述のように、天正9年には戸倉城までも武田の手に渡り……。

 

 ぐぬぬぬぬぬぬぬぬ。氏康以下、北条一族の悔しがる顔が想像できますね。

 

船着き場。我々にとっては湧水よりもこちらがメイン。

 

 こうしてツアー初日は終了しましたが、本日宿泊する沼津リバーサイドホテルの駐車場には三枚橋城の石垣が残っているということで、最後にパチリ。

 

 参加者のみなさんはいい笑顔とともに若干の疲れが見えますが、明日も張り切って行きましょう。ツアー2日目は興国寺城からスタートです!

 

ホテルに残る三枚橋城の石垣。先生によれば外堀に相当する石垣のようです。

 

 

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