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徳川家康は「大坂の陣」の前段階で豊臣秀頼のことをどう思っていたのか?

徳川家康の「真実」


関ヶ原に勝利した徳川家康。しかしながら秀吉の子・豊臣秀頼は健在で、成長とともに存在感を増していた。この時期、家康は秀頼の扱いをどのように考えていたのだろうか。


 

■徳川安泰のために秀頼をどうするか?

 

豊臣秀頼像

 

 徳川家康は関ヶ原の戦いの勝利後、論功行賞などを行うことで実力を示し、慶長8年(1603)には将軍職に就任した。先年までは豊臣家の「家老」に過ぎなかった家康だが、将軍就任後は豊臣秀頼への年頭のあいさつを止め、豊臣家の家臣という立場から決別した。2年後には後継者の秀忠に将軍職を引き継がせ、この時点で、秀頼の「天下人」への道は断たれたかに見えた。

 

 秀頼が成長すれば、豊臣方は家康から秀頼に「天下」が譲られるものと期待していたが見事に裏切られた。

 

 ただ、徳川幕府といっても、家康個人の実力で他の諸大名を圧しているだけであり、家康としては、自分が死去すれば、秀忠は成長した秀頼にとって代わられることを懼(おそ)れた。宣教師などの記録を見ても、秀頼が本来の天下人の後継者であり、家康は軍事的支配者ではあるものの秀頼の後見役にしか過ぎず、将軍秀忠にいたっては、単に江戸の領主という位置づけで、諸大名との間に懸絶した権力を持っていたわけではなかった。徳川家安泰のためには秀頼を一大名化し、「徳川家と豊臣家の地位を逆転させるか」「豊臣家を滅ぼすこと」が家康の残された課題だった。

 

 主筋の秀頼に対する扱いについては格好の手本があった。天下人となった秀吉のかつての主筋で、織田家の正統な後継者であった織田秀信(ひでのぶ)に対する処遇である。家康は秀忠の将軍職就任時に、秀頼を上洛させてあいさつさせることで両家の関係を逆転させようとしたが、淀殿の猛反発で実現しなかった。秀頼は秀信のように一大名に甘んじることはなかった。

 

大坂の陣の前に亡くなった大名

 

■慶長16年二条城での会見で徳川家と豊臣家の地位は逆転

 

 家康は粘り強く次の機会を待った。慶長16年3月の二条城での会見である。会見では両者の関係は対等に等しいという見方もあるが、家康のもとに秀頼が参上して挨拶したことは、豊臣家と徳川家の地位が逆転したことを如実に示すものでもあった。地位の逆転には成功したが、成長した秀頼の姿を目の当たりにした家康は脅威を感じ、改めて豊臣家を滅ぼすことを決意した可能性もある。翌月には西日本を中心とした諸大名に3か条の条々を誓約させ、翌年には東国の諸大名にも誓約させることで、大坂城攻めの準備を整えた。

 

 家康は、秀頼に寺社の復興に莫大な金銭をつぎ込ませることで財力を削ぎ、一大名に転落させるよう仕向けていたが、同19年7月、秀頼が復興していた方広寺のあるものに、難癖を付け、大坂城攻めの大義名分を得ることになる。

 

監修・文/和田裕弘

(『歴史人』20232月号「徳川家康の真実」より)

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