現在まで続く一刀流兵法の創始者<伊東一刀斎>とは⁉
【日本剣豪列伝】剣をもって生き、闘い抜いた男たち<第4回>
戦国時代。剣をもって戦場を往来し、闘い抜き、その戦闘形態が剣・槍・弓矢から鉄砲に変わっても、日本の剣術は発達し続け、江戸時代初期から幕末までに「剣術」から「剣道」という兵法道になり、芸術としての精神性まで待つようになった。剣の道は理論化され、体系化されて、多くの流派が生まれた。名勝負なども行われた戦国時代から江戸・幕末までの剣豪たちの技と生き様を追った。。第4回は一刀流兵法の創始者、伊東一刀斎(いとういっとうさい)。

太刀 銘 長光(大般若長光)」(たち めい ながみつ / だいはんにゃながみつ)
長光をはじめとした長船派(おさふねは)と呼ばれる刀工集団は、16世紀まで日本最大の刀剣の流派として隆盛を誇った。この太刀は長光の代表作のひとつで、室町時代にこの太刀が、貫(かん)という価値などをあらわす単位にして600貫と、大変高いものとされていたことから、全部で600巻の大般若経に結び付けて「大般若長光」と呼ばれた。
「東京国立博物館蔵、出典/ColBase
伊東一刀斎景久(かげひさ)は、その出自・素姓のほとんどが分かっていないが、現在の剣道にまで連綿と続く兵法(剣法)一刀流を創始した剣客である。生年も天文19年(1550)とも永禄3年(1560)ともいうし、生誕地も伊豆大島から伊東、近江堅田、加賀、越前など様々にいわれる。一説では、14歳の時に伊豆大島から三島に流れ着き、ここで富田一放(とだいっぽう)という剣豪と立ち合って勝った、という話がある。また、戦国武将・大谷刑部(おおたにぎょうぶ)の剣の師匠であったともいわれる。諸説とも確証はない。
一刀斎は、伊東弥五郎と名乗っていた。この弥五郎時代に京都で、中条流の達人といわれた鐘巻自斎(かねまきじざい/佐々木小次郎の師匠ともいわれる)から、鐘巻流(外他流)を学んだ。自信を付けた一刀斎は「外他(とだ)一刀」と名乗って関東に行き他流の武芸者と試合をした。このうち、真剣で果たし合ったのが7回。一度も敗れたことはなかった。
この時代、俗に「登り兵法・降り音曲」という言葉があった。兵法(剣技)は東国から西上する、歌舞音曲は西国から関東に下る
という意味である。一刀斎は「俺が、降り兵法にしてやる」と公言したという。つまり、上方(西国)出身である自分が、これまでの兵法の常識を覆してやる、という意味である。これを考慮すれば、一刀斎は上方出身ということにもなる。因みに最初に名乗った「外他」は、鐘巻自斎の外他流から命名しているに違いない。
一刀斎はこれ以後、諸国を巡って他国の武芸者と立ち合った。その際に、2人の弟子を伴った。小野善鬼(おのぜんき)という最初の弟子は、一刀斎が大坂・淀で乗った小舟の船頭であった。一刀斎に挑んできた力自慢の船頭が、敗れて弟子になり、小野善鬼を名乗った。徐々に力を付けた善鬼は、常に一刀斎に先立って相手と戦い苦もなく倒した。2人目の弟子は、神子上典膳(みこがみてんぜん/後の小野次郎右衛門)である。
一刀斎の剣法は、「一剣一理」を主として「一心不乱の極み」に至るとした。
その極意は「我の一をもって敵の二に応ずる。即ち打ちて受け、外して斬る時は、我に利あり」「受けてから打ち、外してから斬る、では一に一,二に二であって、勝負の行方は分からない。一をもって二に応じる時じゃ必ず勝つ」であるという。
さらに「威(不転の位)」「移(棒心の位)」「写(水月の位)」を極めるべしという。「威」とは静にして勢を含む。「移」は過不足なく左右に転じ守ること。「写」は「残心の位」で、付いて離れ、無念無想で敵の気持を写し取る、という意味である。
また一刀斎は、こうも言っている。「人は眠っている間にも、足が痒ければ頭は掻かない。足が痒ければ足を掻き、頭が痒ければ頭を掻く。それが自然の理であり、自ら機能するものである。打とうとする虚に対して、人間の本能である実を持って勝つ。これが剣法の妙である」
一刀斎は、自分の後継者を決めるのに善鬼と典膳を立ち合わせ、勝った方を指名した。この「小金原の決闘」に神子上典膳が勝利した後、一刀斎は姿を消す。『武芸小伝』は「主従は遂に相別れ、その行方を知らず」と記す。以後、一刀斎の消息は不明のままである。