秀頼を産んだ淀殿と、子を産まなかった正妻・ねね。本当に不仲だったのか?
日本史あやしい話
ちまたに流布しているのが、秀吉の正妻・寧々と側室・淀殿の「不仲説」である。子ができなかった正妻(寧々)に対し、跡継ぎ(秀頼)を産んだ側室(淀殿/茶々)の立場が逆転。小うるさい正妻と、生意気な側室のバトルがあったと語られることも、決して少なくないのだ。しかし、それって、本当のことなのだろうか?
■苦労を共にした糟糠の妻・寧々
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有馬温泉の寧々(筆者撮影)
この記事では、秀吉の正室・北政所(後の高台院)こと寧々を取り上げてみたい。いうまでもなく、秀吉の糟糠の妻である。
父は織田家の足軽・杉原助左衛門定利、母は朝日で、わずか14歳の頃(20歳との説も)、秀吉に見初められて所帯を持ったという女性であった。その時、秀吉25歳。木下藤吉郎と名乗って、信長に奉公人として仕えていた頃のことである。
女好きとして知られる秀吉が一目惚れしたというから、おそらく、それなりに美人だったのだろう。秀吉がよほど執心したと見えて、寧々の母が反対するのも聞かず、形ばかりの結婚式を挙げたようである。
ござを敷いた土間の上で行ったというから、農民と変わらぬ暮らしぶりであった。それでも、当時としては珍しい恋愛結婚だったというから、心温まるお話である。
ただし、寧々の母の反対は秀吉が大名の地位に登っても変わらず、生涯不仲のままだったとか。その母の頑固さが娘に受け継がれたのかどうか定かではないが、誰に対してもハキハキとものを言う彼女の気風の良さは、母譲りだったのかもしれない。
のちに秀吉が各地を転戦したことで、領国の行政を寧々が取り仕切ることも少なくなかったが、その際に役立ったのも、この気取らない剛毅な性格であった。夫の主君である信長への挨拶に伺った際にも、夫に対する不平不満(女癖の悪さ)をぶつけ、信長から「ヤキモチを焼くのもほどほどに」とたしなめられたほどであった。
信長が本能寺の変で討たれた後、秀吉がその後継の座を獲得したのはご存じの通り。さらに関白にまで任じられると、寧々も「北政所」と呼ばれて、大きな影響力を持つようになった。京の都に築いた聚楽第へ移り住むと共に、邸内に住まわせた大名たちの妻子の面倒を一手に引き受けたのも彼女であった。
天下統一を成し遂げた秀吉が関白の座を甥の秀次に譲って太閤となるも、依然として実権は握ったまま。側室の茶々に跡継ぎとして秀頼が産まれるや、掌を返して秀次を死に追いやってしまうなど、この頃から秀吉の人間性が、大きく変わっていったようである。糟糠の妻としては、やり切れない思いだったに違いない。
大陸への侵攻の最中に秀吉が没してしまうや、政に飽いたのか、秀頼の後見は淀殿に任せ、自身は尼となって夫の菩提を弔うことに意を注ぐようになったのである。
おそらく高台院(北政所、寧々)にとっては、天下人として威を張る秀吉よりも、苦労を共にできた藤吉郎の方が、愛おしい存在だったのだろう。尾張弁丸出しで怒鳴りあっていた頃の藤吉郎を思い描きながら、70有余歳の生涯を閉じたのである。
■本妻と側室、二人の仲は悪かったのか?
さて、これからが本題である。問題とするのは、本妻である北政所と、側室でありながらも跡継ぎ(秀頼)を産んだことから北政所と共に両御台所と称せられて権勢を誇った淀殿、この二人の関係についてである。つまるところ、「仲が良かったのか、悪かったのか」。このあたりにマトを絞って見つめ直してみたい。
よく流布されるのは、「二人は対立関係にあった」との見方である。寧々こと北政所は正妻である。しかし、跡継ぎを産むことができなかった。対して、茶々こと淀殿は、側室とはいえ秀頼という跡継ぎを産んだ。その強みから立場が逆転し、北政所の方が悲哀を舐めたと見るのだ。
加えて、実の父は足軽出身。北近江に絶大な勢力を誇る戦国大名(浅井氏)の長女(母はお市の方)であった淀殿とは、地位は雲泥の差というべきか。悔しい思いをしたことがないとは、とても思いづらい。
関ヶ原の戦いにおいて、淀殿が秀頼と共に西軍の御柱となりながらも、北政所の甥・小早川秀秋が東軍に寝返ったことに象徴されるように、北政所が東軍に加担する動きが目立ったというのも、よく語られるところである。
また、家康から人質として息子・秀康が秀吉の元に送られた際にも、北政所が手厚くもてなしたことで、秀康はもとより家康とも親密な仲になったという。家康を嫌った淀殿の対照的だったことも、二人の不仲の象徴として語られたものであった。
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