4代徳川将軍「家綱」こそが生まれながらの将軍であった⁉
今月の歴史人 Part.2
3代家光、5代綱吉という有名な将軍に挟まれ、あまり知られていない4代将軍・家綱。彼の治世こそ長い徳川体制の定着を実現した時代であった。
■優秀な家臣に支えられた「左様せい様」

江戸城
父の3代将軍家光、弟の5代将軍綱吉よ しがリーダーシップを発揮したカリスマ性のある将軍と評価されているのとは対照的に、4代将軍の家綱はリーダーシップを発揮したとは言い難い将軍である。だが、11歳で将軍の座に就いたとはいえ、在職期間は約30年にも及んだ。家光や綱吉とほぼ同じ長さであり、その治世は軽視すべきではない。すなわち、将軍親政とは別の政治スタイルを定着させた将軍として評価できるだろう。
生まれながらの将軍というフレーズがある。家光がイメージされることの多いフレーズだが、家光は生まれながらの将軍ではない。忠長(ただなが)という強力なライバルがおり、むしろ弟忠長の方が将軍の座に近かった。
だが、初代将軍の家康が長子相続の原則のもと長男家光を世継ぎとするよう息子の2代将軍秀ひで忠ただに命じたことで、将軍の座に就くことができた。この原則のもと、家光の長男として生まれた家綱は自動的に世継ぎと定められたのであり、家綱こそが生まれながらの将軍の第一号だった。
慶安4年(1651)4月、幕府の礎を固めた3代将軍家光は将軍在職のまま病死する。これを受けて家綱は4代将軍の座に就いたが、この時はまだ11歳であり、みずから政務を切り盛りすることは難しかった。
そのため、家光の側近から老中に累進した松平信綱や酒井忠勝の補佐を受けながら、政務を執った。家光の異母弟で家綱には叔父にあたる保科正之(ほしなまさゆき)も、後には将軍補佐役として幕府政治に関与した。
家光を支えた重臣たち主導のもと、幕府は運営されたのであり、将軍親政ではない政治スタイルが定着する背景にもなった。
監修・文/安藤優一郎