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徳川15代将軍でもっと評価されるべきなのは誰だ!? 暗君とされた将軍の意外な功績

「歴史人」こぼれ話・第41回


徳川260年の世を築いた、15人の将軍たち。しかし、なかには実際の功績と比較して、失政や遊興にふけったイメージの方が強い人物もいる。果たして、彼らは本当にただの暗君だったのだろうか? ここでは、世間的にあまり良い印象を持たれていないであろう将軍を3人厳選し、歴史に残した功績と意外な素顔を解説する。


■5代将軍・徳川綱吉は奈良の大仏の恩人だった

 

 5代将軍・綱吉というと豪勢な生活に耽(ふけ)って幕府の財政難を深刻化させた将軍として、あまりイメージはよくない。そうした支出を賄うために貨幣の改鋳を行ったことでインフレも起き、庶民は生活苦に陥るが、寺院や神社にとっては救世主のような存在であった。

 

 綱吉は母桂昌院(けいしょういん)の影響もあって神仏への信仰心が厚く、寺社の造営・修復事業を積極的に展開した将軍として名を残した。その事例は106例も確認されるというが、元禄元年(1688)から9年(1696)までのデータによれば、のべ34の寺社の修復費として約22万9269両を支出している(大野瑞男『江戸幕府財政史論』吉川弘文館)。

 

 そんな寺社のなかで最も恩恵を受けたのは、奈良の東大寺だろう。綱吉なくして大仏殿は再建できず、奈良の大仏は鎌倉の大仏のように今も露座のままだったかもしれない。戦国時代から綱吉の時代までの約140年間、大仏殿は存在しなかった。戦国の兵乱に巻き込まれて焼失したからだ。そのため、奈良の大仏は露座の大仏となる。長期間風雨に晒されたことで、損傷は激しかった。

 

 この窮状を嘆いた東大寺の公慶上人(こうけいしょうにん)は勧進活動により修復費を集め、元禄4年(1691)2月に大仏の修復を完了させる。しかし、大仏殿の再建費まではとても集められず、幕府の援助がどうしても必要であった。

 

 ここで登場するのが、綱吉と桂昌院から崇敬されていた僧侶の隆光(りゅうこう)である。隆光は大和国の出身で故郷奈良の仏教復興に尽力した人物でもあったため、公慶の活動には非常に好意的だった。隆光は公慶を綱吉、桂昌院、側用人の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)に引き合わせるなどして、幕府のバックアップが受けられるよう奔走している。

 

 こうして、大仏殿再建は幕府の威信を掛けたプロジェクトに転化する。同14年(1701)3月、幕府は諸大名に対しても石高(こくだか)に応じて再建費を差し出すよう命じた。その結果、宝永5年(1708)6月に大仏殿は再建の運びとなる。現在も全国から多くの人々を迎える東大寺の大仏殿にとり、綱吉はまさしく恩人に他ならない。

奈良県・東大寺の大仏殿。奈良の大仏がこのような立派な大仏殿に座しているのも、じつは綱吉の功績だった。

■9代将軍・徳川家重は開明政治家田沼意次の産みの親だった

 

 9代将軍家重(いえしげ)は父の8代将軍吉宗の偉大さの陰に隠れて存在感が薄いことは否めないが、資質についても疑問視されることが多い。生来、虚弱体質だった上に言語不明瞭でもあったため、側用人の大岡忠光(おおおかただみつ)以外はその言葉を理解できなかった。また、歴代将軍の霊廟があった上野寛永寺に参詣する際は、尿意を催して途中で何度も便所を利用したため、「小便公方」というあだ名まで付けられた。これもまた、家重のイメージを悪くしている理由の一つである。

 

 しかし、家重は吉宗のようにリーダーシップを発揮する将軍ではなかったものの、人を見る目はあったようだ。その一番の好例は田沼意次(たぬまおきつぐ)を高く評価したことであり、いわゆる田沼時代の産みの親としての歴史的役割を果たす。

 

 田沼は家重が将軍の座に就く前から小姓を勤め、その側近として重用された。宝暦8年(1758)には旗本から大名に取り立てられるが、同10年(1760)に家重は将軍職を長男家治(いえはる)に譲る。将軍代替わりの際、前将軍の側近は退けられるか身を退くのが通例だが、「田沼は正直な人間であるから目を掛けて用いるように」と家重は申し送っている。

 

 よって、家治は父の言葉に従って、引き続き田沼を重く用いた。そして安永元年(1772)には幕府トップの老中に抜擢し、政治を任せた。ここに、田沼が権勢を振るう田沼時代が到来する。

 

 近年の研究により、田沼は幕府財政立て直しのため外国貿易の拡大策や商業資本と結びつく施策を取った開明的な政治家として評価されるようになっている。つまり、行き詰まりをみせていた従来の幕政を改変しようとしたわけだが、それが可能だったのは家治の信任を得て老中職を勤めていたからに他ならない。家治が厚く信任して幕政を任せた背景には家重の申し送りがあった以上、家重は開明政治家田沼意次の産みの親と評価できるのである。

 

■11代将軍・家斉の松平定信への信頼は変わらなかった

 

 11代将軍家斉(いえなり)の治世というと、その贅沢な生活が幕府財政を破綻状態に追い込み、また賄賂(わいろ)が横行して政治が乱れた時代の印象も強い。内外の情勢が幕末に向けて緊迫していたにも拘わらず、家斉は世評を顧みることなく自由気ままな生活を送っていたというわけである。

 

 天明7年(1787)に家斉が15才で将軍の座に就いた当初は、父一橋治済(ひとつばしはるさだ)の従兄にあたる松平定信が将軍補佐役兼老中首座として寛政改革を断行したこともあって、世の中は引き締まっていた。だが、寛政5年(1793)に家斉が定信を解任したことで改革政治は頓挫し、政治の腐敗も進んでいったと語られるのが定番となっている。実際のところ両者の関係が険悪化した結果、解任に至ったわけだが、長い目で見れば二人の関係は決して悪くなかった。

 

 家斉より15才年上にあたる定信は解任後も、老中や若年寄が詰める御用部屋への入室が許され、相談役としてのポジションを維持した。幕政への発言権は確保されており、要するに家斉への影響力を持ち続けたのである。

 

 家斉にしても定信には感謝の念をずっと抱いており、次のようなエピソードはそんな家斉の思いを象徴するものと言えるだろう。勝海舟とともに江戸無血開城に立ち会った旗本の大久保忠寛(おおくぼただひろ)が福井前藩主松平春嶽(まつだいらしゅんがく)に語ったエピソードである(『閑窓秉筆』)。

 

 家斉が片時も手元から離さなかった粗末な煙草盆があった。かつて定信が献上した古びた煙草盆だが、家斉は常に近くに置くことで、定信が自分を補佐していた時のことをいつも思い出していた。色々世話になったことや、自分に意見したことを思い出す記念の品であると家斉自身が語ったという。

 

 このエピソードについて春嶽は、家斉があたかも師父のように定信に接していたことを示すものと評する。家斉にとって、定信は父のように敬愛する存在であった。家斉のワンマンなイメージとはだいぶ異なる印象を後世に伝えるエピソードである。

東京・上野の寛永寺にある徳川家霊廟には、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の6人の将軍が眠っている。

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過去記事

安藤優一郎あんどうゆういちろう

1965年千葉県生まれ。歴史家。文学博士(早稲田大学)。主な著書に『渋沢栄一と勝海舟』(朝日新聞出版)、『幕末の志士渋沢栄一』(エムディエヌコーポレーション)、『明治維新 隠された真実』、『河井継之助 近代日本を先取りした改革者』(ともに日本経済新聞出版)など。

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