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大きな古墳の周りにポツポツとある小さな塚は何なのか?

「歴史人」こぼれ話・第40回


今なお多くの謎に包まれ、それゆえに我々を魅了してやまない古代日本史。当時の技術力や風習、思想、国家体制などを解き明かす手がかりは、各地に残された古墳にある。今回は巨大古墳とその周りを固める陪冢にスポットを当てて考察してみよう。


■主墳と陪冢の関係

 

 他を圧するような巨大な古墳の周辺には、小型の古墳が隣接するようにいくつか存在する。これを「主墳(しゅふん)と陪冢(ばいちょう)」と呼ぶ。今は「陪塚(ばいづか)」とも呼ぶようだが、正しくは「冢(ちょう)」なのだ。この字は漢字検定一級レベルだそうで、「ちょう」とも読むし「つか」とも読めるそうだから無理に「ばいちょう」と読まなくてもいいような気もするが、専門家ほど「ばいちょう」と読みたがる。

 

 それはともかく、古墳についてはいろいろとわかったような気になっているが、実際には根本的なことがほとんど分かっていないのが現状なのだ。

 

 例えば、圧倒的な存在感を示す日本一の大仙陵(だいせんりょう)古墳。世界遺産になって「仁徳天皇陵古墳(にんとくてんのうりょうこふん)」という登録名になってしまったが、ここに第十六代仁徳天皇が葬られているのかというと、考古学的にはどこにもそんな証拠がない。

 

 しかし主墳である大仙陵古墳の周辺には陪冢と考えてよい古墳がいくつも存在する。宮内庁の管理しているもので12基、それ以外で失われたものや陪冢かどうかが不明瞭なものまで数えると19基あるというから、従える陪冢の数からしても大仙陵古墳の被葬者は強大な権力を有し、大きな組織の上に君臨していたことは間違いない。

 

 中規模の陪冢に「孫大夫山(まごだゆうやま)古墳」というのがある。この古墳は後円部の墳丘だけを宮内庁が管理している帆立貝式とみられるもので、東西軸を基線に方部は西に開く。築造はさまざまな研究から5世紀半ばとされており、出土したという埴輪の作りが大仙陵古墳の物と酷似している。また、築造場所が主墳の前方部に隣接しているので陪冢とみて間違いない。

 

 問題は、この古墳が誰のもので、主墳の被葬者とどういう関係にあったのかということなのだが、それはさっぱりわからない。ただ、日本の古墳には一種のヒエラルキー(階級制)が認められているので、主墳の被葬者よりも位が下の人物だと考えられる。たしかに主墳の大仙陵古墳の大きさに比べてはるかに小さいので直感的にも理解できるし、まるで太陽と地球を並べて大きさ比較をするようなものである。

大阪府堺市にある百舌鳥古墳群を空から撮影したもの。この古墳群は、大仙陵古墳をはじめ44基もの古墳で構成されている。

■「謎の4世紀」を解明するカギは古墳にある

 

 わが国の古代の葬送ルールには階級制が用いられていて、円墳・方墳・前方後円墳などさまざまな墳形があるのだが、その形と大きさに被葬者の立ち位置が表現されていると考えてよいだろう。そのほか、葬送儀式にも階級による期間や規模があった。

 

 問題は当時もっとも階級が高くて主墳に葬られる主人公が、どういう人だったのか? ということである。現代の私たちは「当然大王だろう!」と考える。私もそう思う。しかし、最古の本格的前方後円墳だと考えられる奈良県の纏向(まきむく)遺跡内にある大市墓(おおいちぼ)は天皇陵ではない。

 

 第十代崇神(すじん)天皇の時代に、大和は国を傾けるほどの大飢饉と疫病に苦しみ、三輪山に大物主大神(おおものぬしのおおかみ)という国つ神を祀ることになった。その神の妻になったのが「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」という女性だった。

 

 百襲姫はある日の朝、夫の顔が見てみたいという願いを叶えてもらったのだが、その姿は小さい真っ白な蛇だった。それに驚いて悲鳴をあげると、「姿を見て悲鳴をあげるなど私に恥をかかせた。もう二度とここには来ない」と激怒した大物主大神が去っていく。落胆した百襲姫が尻餅をつくとそこにあった箸で体を貫いてしまい絶命する、という説話がある。その百襲姫を埋葬したのが大市墓で、この説話から「箸墓(はしはか)古墳」と呼ばれているのだ。

 

 ということは、この前方後円墳には巫女が埋葬されているということだ。神に仕える妻(=巫女)がヒエラルキーの最上段に置かれていたことにならないか。本当に大王が最高位にあったのだろうか?

 

 時代を経ると大古墳の主人公はやはり大王なのだろうが、いつどこの時点でそうなったのかはすべての前方後円墳を真摯に調査する必要がある。

 

 百舌鳥古墳群とともに世界遺産に登録された古市古墳群にもおかしな例がある。第十五代応神(おうじん)天皇の陵墓だとされている巨大な前方後円墳の誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳は、はるかに小さな古墳に遠慮をして築造されている。その小さな前方後円墳を二つ塚古墳といい、航空写真をみると不思議なほど遠慮をしているように見えるのだ。

 

 神功皇后の息子で「胎内(たいない)天皇」とも呼ばれ、もっとも尊崇を受けている応神天皇が遠慮するほどの被葬者とはいったいだれなのか? この二つ塚古墳は応神天皇陵よりも30~50年古い古墳なので、先に小さな二つ塚古墳があって、わざわざそこにくっつけて応神天皇陵古墳を築造したと考えられる。

 

 誉田御廟山古墳の被葬者が本当に仁徳天皇の父である応神天皇なら、この二つ塚には誰が葬られているのかという推理は面白いだろう。古代の貴人、主墳が遠慮するほどの人物の墳墓であることは間違いないのだが、その大前提の「本当に応神天皇陵なのか」ということを証明するものはなにもないのである。
 
 巨大な前方後円墳が近畿地方に造られ、東北地方にまで定型化された前方後円墳が広がる4世紀から5世紀の初めは「謎の4世紀」と呼ばれていて、日本列島内で起きたダイナミックな大変革の記録がまったくないのだ。しかし、厳然としてわが国にはその時代の立派な古墳がいくつも残されている。これらの考古学調査と研究をしなければ、私たちの遠い先祖が築き上げた国家の礎の重要な時代は、永遠に「謎の4世紀」とだけ呼ばれてさっぱりわからないままなのである。

写真左側の巨大な古墳が、誉田御廟山古墳。そのくびれ部分に接しているのが、二つ塚古墳である。

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柏木 宏之(かしわぎ ひろゆき)
柏木 宏之かしわぎ ひろゆき

1958年生まれ。関西外国語大学スペイン語学科卒業。1983年から2023年まで放送アナウンサー、ニュース、演芸、バラエティ、情報、ワイドショー、ラジオパーソナリティ、歴史番組を数多く担当。現在はフリーアナウンサーと同時に武庫川学院文学部非常勤講師を務め、社会人歴史研究会「まほろば総研」を主宰。2010年、奈良大学通信教育部文化財歴史学科卒業学芸員資格取得。専門分野は古代史。歴史物語を執筆中。

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