【ランキング】日本の女性のなかで「歴史に大きな影響を与えた人物」は?
歴史人ランキング
現代、組織で活躍する女性も数多くいる。歴史のなかでも名を残すほどの活躍をした女性が多く存在した。今回の雑誌『歴史人』のアンケートは、「古代から江戸までに活躍し、日本史に大きな影響を与えるほど活躍した女性は?」。集計結果の第5位から第1位までを発表します。 <総票:492票 男性:女性=8:2>

熊本市にある塚原古墳公園にある巫女の石像。卑弥呼が存在した3〜4世紀頃、古代の儀式を模した巫女の石像。卑弥呼は果たして何位だったのか……。
第5位 「高台院」「天璋院」 投票数:30 票 (同数)
第5位は同数の30票を獲得した「高台院(こうだいいん)」と「天璋院(てんしょういん)」。
高台院は、天下人となった豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)の正室で、通称「ねね」で知られています。尾張国の生まれで、織田信長(おだ・のぶなが)の家臣だった秀吉と結婚しました。ねねは、武士の家柄である浅野家の養女だったため、ねねの実母は農民出身の秀吉との結婚に反対でした。
秀吉の大出世はご存じの通りです。信長の草履取りから天下人になった秀吉は、「戦国一の出世頭」と呼ばれていました。ねねは、若い頃から秀吉と苦楽をともにし、「内助の功」を絵に描いたような活躍ぶりだったようです。
秀吉が中国攻めに出陣し留守の間は、ねねが代わって政務を行なったともいわれおり、その影響力は秀吉の出世とともに大きくなっていきました。ポルトガル人宣教師であるルイス・フロイスは著書『日本史』のなかで、ねねの才能を高く評価し、その発言力の大きさについて触れているほどです。
もう一人の天璋院は、第13代将軍・徳川家定(とくがわ・いえさだ)の正室。薩摩藩一門の出で、藩主・島津斉彬(しまず・なりあきら)の養女。結婚するまでは篤姫(あつひめ)と呼ばれていました。結婚してわずか2年足らずのうちに夫・家定が病死。篤姫は落飾し天璋院と名乗ります。
故郷・薩摩藩を含む新政府と、旧幕府が戦った戊辰戦争が起こります。この時、天璋院は西郷隆盛(さいごう・たかもり)に手紙を送り、幕府存続のために尽力。手紙には、「当家之土=徳川家の土となる」と書いてあったといいます。かつて斉彬は、篤姫のことを「忍耐力があり怒ったことがない。大きな広い心の持ち主。御台所にふさわしい人物」と誉めていました。
高台院に票を投じた人からは、「秀吉が天下を統一できたのは、ねね(高台院)あってこそ、と思います」「豊臣政権の最後を、見事に演出した女性ではないでしょうか」という感想が寄せられています。また天璋院に票を入れた人は、「徳川家にとって実に大きな存在だった。徳川家を守った重要人物」「無血開城の立役者の一人ではないでしょうか。幕末の日本を支え、江戸から明治への時代の移り変わりに尽力したと思います」などのコメントを寄せてくれました。
第3位 「持統天皇」 投票数:66 票
第3位は、飛鳥時代に活躍した持統天皇(じとうてんのう)で、高台院や天璋院の倍以上となる66票を集めました。父は大化の改新を実行した中大兄皇子(なかのおうえのおうじ)で、即位前は鸕野讃良皇女といいました。
13歳の時に、中大兄皇子の弟である大海人皇子(おおあまのみこ)に嫁ぎます。そして大海人皇子が壬申の乱を経て即位し天武天皇(てんむてんのう)になると、その皇后となりました。壬申の乱では、大海人皇子と行動を共にし、陰陽道や兵法に通じていた彼女は、深い知識と明晰な頭脳で大海人皇子を補佐。また大海人皇子は天武天皇となってから、大臣を置かず、すべての政務を皇后に相談したそうです。
そして天武天皇崩御後は、女帝として君臨し、持統天皇が誕生します。夫の遺志を継ぎ藤原京を造営し、また律令を制定、戸籍を整備するなど日本の政治の礎を築きました。
持統天皇を推す人たちは、その存在感の大きさを大いに感じているようです。「天武天皇亡き後、律令制の基礎を整え、間違いなく、日本の礎を築いた人物です」「持統天皇がいなければ、日本が、国家という形を成すのはもっと遅かったのではないだろうか」と、政治家として高く評価する声が多く集まりました。
第2位 「北条政子」 投票数:154 票
第2位は、源頼朝(みなもとの・よりとも)の御台所である北条政子(ほうじょう・まさこ)。北条政子は、日野富子(ひの・とみこ)、淀殿(よどどの)とともに日本三大悪女のひとりです。
政子は、伊豆の豪族・北条時政(ときまさ)の長女として、伊豆国で誕生しました。頼朝と結婚したのは、彼が蛭ヶ小島(ひるがこじま)に流されていたころのこと。父親の反対を押し切っての結婚でした。平氏を倒し、鎌倉に幕府が開かれてから頼朝とともに政権の確立に尽力したことは、ドラマなどでもよく描かれます。
頼朝が53歳で亡くなると、政子は尼となって冥福を祈ります。
やがて息子である頼家(よりいえ)が第2代将軍に就任しますが、頼家の独裁を防ぐため、政子の弟・北条義時(よしとき)をはじめとする13人の御家人たちは「13人の合議制」を発足。そうしたなか頼家が危篤状態になり、その間に頼家の弟・実朝(さねとも)が第3代将軍として擁立され、その後回復した頼家と実朝は争うこととなりました。
最終的には頼家は修善寺に幽閉された上、頼家は殺害されてしまうことになったのです。政子の実の子ふたりが将軍の座を争ったわけですが、政子の北条一族もまた政権を握ろうと争い、彼らはは執権として政治を行いました。
やがて後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が幕府の実質的権力者であった北条義時の追討命令を発し、承久の乱が勃発。このとき、政子は頼朝が築いた「御恩と奉公の大切さ」を御家人たちに説きます。尼将軍と呼ばれていた政子の演説は、御家人たちの胸を打ち、一丸となった幕府軍は上皇軍を打ち破り、勝利したのです。
その後、政子は病に臥し、69歳の生涯を終えました。
北条政子が日本史に大きな影響を与えたと考える人は多く、「鎌倉幕府といえば、この人! というぐらいの人物です」「武家政権を盤石にしたのは、政子という存在があってこそではないでしょうか。源頼朝や北条義時だけでは、鎌倉幕府は続かず、武家政治も確立しなかったように思います」「女性が政治の表舞台に立つことがほとんどなかった時代。政子は尼将軍といわれるほど政治手腕を発揮しました。リーダーシップがある人物だと思う」などと多くの熱いコメントが寄せられました。
第1位 「卑弥呼」 投票数:172 票
そして第1位となったのは邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)。北条政子を上回る172票を獲得しました。
3世紀の中国の皇帝が、卑弥呼に「親魏倭王」の王号を授けます。歴史書『魏志倭人伝』のなかで卑弥呼は倭王として扱われ、倭国の地理や習俗、邪馬台国と魏の国交とともに、その名が伝えられることとなったのです。
しかし、倭国の女王とされた卑弥呼の人物像を探る手がかりはほとんどありません。推測されるのは、倭の30国を治めていたことや、夫はいないことなどで多く謎を残しています。
卑弥呼は、「クニ」の組織の頂点に立つ存在でした。彼女は祖霊を崇め、動物の骨や植物の種を駆使した祭祀を行ったシャーマンだったともいわれています。
「卑弥呼は誰だったのか?」は、古代史上の多くの謎のなかでも最大の難問とされています。邪馬台国が大和か九州かという論争が解決したとしても、それぞれの地に複数の卑弥呼候補がいるのです。
卑弥呼には政子以上に多くのコメントが集まりました。「実在したかどうかもわからない。しかし、古代の女王というインパクトは圧倒的だ」という人は実に多くいました。「日本が国際デビューを果たした初めての人物は、卑弥呼。日本の歴史の一番最初に出てくる人物。日本の歴史はこの人から始まった……と思っています」「初めての女性の支配者。同じ女性として何だか誇らしくもあり、また希望になる人物」「存在が謎めいていて、現在も、多くの論争の中心にいます。昔も今も、重要人物であることを示しているではないだろうか」など、「卑弥呼こそ、No.1」と172票が集まりました。
(アンケート…メールとハガキで集計。総票数:592票)