【ランキング】戦国時代を生き抜いた女性のなかでもっとも「すごいと思う女性」は?
歴史人ランキング
織田信長や豊臣秀吉、徳川家康と名だたる名将たちが活躍した戦国時代。今回のアンケートは、「戦国時代に活躍した姫君で『すごい女性だ』と思うのは誰?」について集計しました。第5位から第1位までを発表します。 <総票:497票 男性:女性=8:2>

兵庫県の有馬温泉街の中心部にある「ねね像」。太閤秀吉と、その正妻・ねねは度々、有馬を訪れたそうです。ねねは、戦国時代のすごい女性の何位なのか?
第5位 「お江」 投票数:51 票
第5位は「お江(ごう)」。第6位・淀殿(よどどの)、第7位・濃姫(のうひめ)を上回り、51票を獲得。近江国の浅井長政(あざい・ながまさ)と、織田信長(おだ・のぶなが)の妹・市(いち)との間に3女として生まれました。
姉は豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)の側室となった淀(よど)で、お江自身は、徳川家康(とくがわ・いえやす)の跡を継ぎ第2代将軍となった秀忠(ひでただ)の御台所となった女性です。また徳川家光(とくがわ・いえみつ)の母でもあり、日本史にその名を残しました。
お江が生まれたころ、父・浅井長政は信長と家康の連合軍との戦いに敗れて自死。母・お市は清洲会議の結果、柴田勝家(しばた・かついえ)と再婚します。しかし、「賤ケ岳の戦い」で両親がともに自害。10歳だったお江はこの戦さの勝者・豊臣秀吉に保護され養女となりました。
お江は秀吉の命令で3度、結婚しています。最初は織田家家臣の佐治一成(さじ・かずなり)、2度目は秀吉の養子・豊臣秀勝(とよとみ・ひでかつ)、そして3度目が徳川家康の息子・秀忠です。秀忠との間にもうけた2男5女のひとりが、第3代将軍となった家光(いえみつ)です。
波瀾万丈の人生を送ったお江。票を投じた人からは、「一見、時代に翻弄された人生のようにも見えるけれど、将軍の生母となり、人生後半は安定した生活を送った。意志の強い女性だったようにも思う」「戦国時代をそのまま物語っているような、複雑な人間関係のなかで生きたお江。戦国の世にあっては、強運な人生ではないでしょうか」などど、数奇な人生を逞しく生き抜いたことを「すごい」と考えた人が多かったようです。
第4位 「まつ」 投票数:57票
4位は、加賀藩の礎を一代で築いた前田利家(まえだ・としいえ)の正室・まつで、57票を獲得。
まつは、尾張国・織田家の弓頭である篠原主計(しのはら・かずえ)の娘として誕生しました。その後、父が亡くなったため、前田利家の父・利昌(としまさ)に預けられます。ここで、まつは利家に見初められ、結婚することになったのです。
織田信長に重用され、順風満帆だった利家ですが、信長が本能寺の変で明智光秀(あけち・みつひで)に討たれたことで運命が大きく変わります。明智光秀を討った豊臣秀吉と、柴田勝家(しばた・かついえ)が、織田政権の後継をめぐり対立。勝家と協力関係にあると同時に、秀吉とも親交を深めていた利家は、苦境に追い込まれることになったのです。
そして秀吉と勝家が戦うことになった「賤ケ岳の戦い」で、利家は選択を迫られます。柴田方に与していた利家は、土壇場で秀吉側に寝返ります。その結果、秀吉は勝利。利家は新たな領地を手に入れます。
波瀾万丈の人生を、自らの力で切り拓いた利家とまつは、11人の子どもをもうけており、夫婦仲が良かったことはご存じの通り。まつは、利家を支え続けたことで知られていますが、利家に堂々と意見をした逸話なども残っています。
利家が加賀百万石の藩主となるのに、まつは重要な役割をしたといわれています。まつに投票した人たちも、その点を評価している様子。「”内助の功”ということばがピッタリの女性だと思います」「賤ガ岳の戦いの後、まつが秀吉と利家の間を取り持ったというエピソードもあります。真偽のほどは分からないが、いずれにせよ、まつは存在感ある女性だったと思う」などのコメントが寄せられています。
第3位 「細川ガラシャ」 投票数:90 票
第3位は「細川(ほそかわ)ガラシャ」で、4位のまつを、30票以上も上回りました。ガラシャのことは、信長に謀反を起こした明智光秀の娘として、またキリシタンの女性として思い浮かべる人も多いことでしょう。
越前国に誕生。才色兼備で知られたガラシャは、細川幽斎の息子・忠興(ただおき)に嫁ぎます。子どもも誕生し、幸せな暮らしを送っていましたが、ガラシャもまた「本能寺の変」で運命が変わりました。
父は信長を討った明智光秀。ガラシャは「逆臣の娘」となったのです。細川家を守るために、夫・忠興はガラシャと離縁しますが、実際には丹後国で保護され隠棲生活を送っていました。後に秀吉に許され、細川家に戻りますが、常に監視される生活を送らざるを得なかったようです。
ガラシャがキリスト教徒となったのも、こうした背景があったからだといわれています。
当時はキリスト教を広めることは禁止されており、天正15年(1587)に秀吉は「バテレン追放令」を発令。こうした状況のなかで、ガラシャは洗礼を受けたのです。夫・忠興との仲は、改宗を告白したのを機に激変。激怒した忠興は、改宗した侍女たちを追い出すなどの行動に出ましたが、それでもガラシャは信仰を深める一方だったようです。
豊臣秀吉が死んだ後、石田三成を中心とする「豊臣派」と、細川忠興が従っていた「家康派」は対立。そうしたなか三成は、豊臣派の勢力拡大のため大名の家族を人質にとります。ガラシャも人質となることを求められましたが、これを拒否したため屋敷を兵に囲まれます。
そして最終的にガラシャは、家老・小笠原秀清(おがさわら・ひできよ)に槍で胸を突かせて亡くなりました。キリスト教では自死を禁じられていたための行動だったとされています。
ガラシャに票を投じた人たちは、こうした激動の人生のなかでも意志の強さがうかがわれることが印象深かったようです。「逆臣の娘という逆境を、信仰で乗り越えた……。最後まで頑張り抜いた姿勢に涙が出ます」「過酷な運命のなかで、信念を持って生きた人だと思う。戦国の世にあって、なかなか出来ないのではないでしょうか」などの感想が多く寄せられています。
第2位 「お市の方」 投票数:123票
細川ガラシャよりさらに30票以上多い123票を獲得し、第2位となったのは「お市(いち)の方(かた)」。戦国のカリスマ・織田信長の妹で、幼少の頃からその美貌と聡明さで知られていました。
お市の方は、浅井長政(あざい・ながまさ)に嫁ぎます。二人の間に生まれた子どものなかには、「茶々(ちゃちゃ)」「初(はつ)」「お江」がいます。「浅井三姉妹」と呼ばれた彼女たちはいずれも、戦国時代を代表する女性であり、また数奇な人生を送りました。
やがて兄・織田信長と夫・浅井長政の友好関係は崩れます。元亀元年(1570)の「金ヶ崎の戦い」を機に、長政は信長と決別。さらに「姉川の戦い」を経て、「小谷城(おだにじょう)の戦い」で信長と長政は戦うことになります。結果、長政は敗れて自害することになったのです。
浅井家が滅亡した後、お市の方は実家である織田家の庇護を受けていました。しかし、お市の方の人生は、大きく変わります。「本能寺の変」によって信長が亡くなったからです。信長の後継者を決めるために開かれた清洲会議で、お市の方は柴田勝家と再婚することになりました。
そして、またも夫・勝家が戦に敗れます。天正11年(1583)、秀吉と対立していた勝家は「賤ケ岳の戦い」で敗北。勝家は、越前北ノ庄城に帰城するも秀吉に包囲され、ここで自害することを決めたのです。このとき、お市の方は秀吉の庇護を受けることを拒絶し、一緒に自刃することを選びました。
お市の方を「すごい女性」と票を入れた人の多くは、圧倒的な存在感を感じているようです。
「兄の敵になっても、嫁いだ浅井家を支えた。一方で、夫・浅井長政を実は裏切っていたという説もあります。真偽のほどは分かりませんが、こうしたエピソードもまた彼女を謎めいた存在にしています。戦国武将たちの運命をも、実は左右した特別の女性であるようにも思えます」など彼女の魅力を語るコメントが多く寄せられています。
そして「信長の妹で、悲劇のヒロインのように語られているけれど、実は強い女性だったように思う」「娘たちを逃し、自身は夫・勝家とともに自害。ただ美しいだけの女性ではなかったのではないでしょうか」「太閤となった秀吉を物語る際に、欠かせない女性の一人。戦国時代のスーパー・セレブだったようにも思います」など、お市の方の数奇な運命に魅せられているようでもあります。
第1位 「ねね」 投票数:144 票
そして堂々、第1位に選ばれたのは144票を獲得した「ねね」。天下人となった豊臣秀吉の正室です。秀吉の出世には、ねねの働きが大きかったともいわれるほど。名だたる戦国武将にも引けを取らないほど、一際大きな存在感を放っている女性です。
ねねは、尾張国の武士・杉原定利(すぎはら・さだとし)の次女として生まれたといわれています。信長の家来となっていた秀吉(当時は木下藤吉郎)に、ねねが嫁いだのは永禄4年(1561)のこと。秀吉とねねは、当時は珍しい恋愛結婚でした。一説には農民出身の秀吉は、ねねよりも身分が低かったため、ねねの両親は大反対。周囲の反対を押し切って一緒になった二人は、質素な結婚式を挙げたそうです。
そんな周囲の心配とは裏腹に、秀吉は織田信長の家臣となり、どんどん出世街道を登っていきます。やがて足軽だった秀吉は長浜城の藩主になり、ねねも秀吉を支え続けます。秀吉が留守の間は、ねねが代わって政務を務めたともいわれています。また、城下で暮らす人々の年貢レートを秀吉と相談したり、税収の値上げにも反対したといわれています。天下人として権力を振るった秀吉ですが、妻・ねねもまた、周囲に一目も二目も置かれる存在だったようです。
その後、秀吉とねねは大坂城に移り住みます。秀吉が関白に任官され、従三位に叙せられたことで、ねねは「北政所(きたのまんどころ)」の称号を許されます。さらに後陽成(ごようぜい)天皇の聚楽第(じゅらくだい)への行幸が無事に終わると、その功を讃えられ従一位にも叙せられました。
慶長3年(1598)に秀吉が亡くなった後は、秀吉の側室だった淀殿(よどどの)と連携し、ねねは豊臣秀頼(ひでより)の後見に当たりました。そして「関ヶ原の戦い」を経て、秀頼が千姫と結婚したのを機に落飾(らくしょく)。高台院の院号を許され、慶長11年(1606)に京都・高台寺を建立しました。
秀吉の菩提を弔い、ねねは元和10年(1624)に天寿を全うしました。
ねねを「すごい女性だ」という人たちからは「秀吉が天下人になれたのは、ねねの存在があってこそ。そう思うようなエピソードも多く、才能豊かな女性だったのだと思います」と、ねねの力量を認めていることが分かります。「秀吉との間に子どもがいなかったけれど、自らの才能で、常に政権の中枢にいた女性。現代にもいないのでは?と感じます」「ねねは判断力に優れ、人間関係を上手に保った女性。徳川家康に信頼されたことは、その証のように思います」など、ねねという人間の大きさを讃える声が数多く寄せられました。
(アンケート…メールとハガキで集計。総票数:497票)