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徳川家康をめぐる近親者を振り返る【築山殿・松平信康・亀姫・徳姫】

徳川家康の「真実」⑳


徳川家康の人生において、信長など敵味方として影響を与えられた人物がいるが、親族者たちも家康の天下人への道には大きな影響を与えた。


 

桶狭間の戦いを契機に夫婦関係は悪化

■築山殿(つきやまどの/瀬名/家康正室)

 

駿府城
家康が建てた駿府城は今川館の跡地に建てられた。家康が人質時代を過ごし、瀬名も幼い頃にかかわりのあった場所といえよう。

 

 今川一門・関口氏純(せきぐちうじずみ)の娘として生まれた。母は井伊直平の娘で、今川義元(いまがわよしもと)の側室となったのち、その養妹として氏純に嫁いだという。

 

 弘治2年(1556)、義元の養女として家康に嫁ぐと、信康・亀姫の一男一女を産んでいる。だが、桶狭間の戦いを契機に家康が今川家から自立を図るにおよび、夫婦関係は悪化したらしい。永禄5年(1562)に岡崎へ移るが、近隣の築山に居住した。そのため、築山殿と呼ばれるようになる。

 

 元亀元年(1570)に家康が浜松に移ったあとも、信康の後見と称して岡崎にとどまった。その後、武田勝頼(たけだかつより)との内通を咎められると、弁明のため浜松に赴こうとしたが、途中、家康の手の者によって殺害された。

 

 

謎につつまれた信康自害の真相

■松平信康(まつだいらのぶやす/家康長男)

 

 永禄2年(1559)、家康と瀬名の長男として駿府に生まれた。幼名は家康と同じ竹千代であり、後継候補として育てられた。桶狭間の戦い後に父が自立をすると、人質交換で岡崎城に移っている。

 

 家康と織田信長との間に清須同盟が結ばれた際、信長の娘徳姫を正室に迎えた。元亀元年(1570)に父が浜松城に移ると、岡崎城を譲られている。元服と同時に、岳父信長の偏諱をうけて信康と名乗った。しかし、天正7年(1579)、武田勝頼との内通の咎とがで自害に追い込まれてしまう。事件の真相は不明ながら、最近では、信康の家臣団と家康の家臣団との対立が引き金となったともみられている。

 

 

武田との勢力争いに利用された家康の長女

■亀姫(かめひめ/家康長女)

 

 永禄3年(1560)、家康と瀬名の長女として生まれた。松平信康は兄にあたる。誕生の直後に桶狭間の戦いがおこり、家康が今川家から自立を図ると、駿府にいた亀姫は母と兄とともに、人質交換により、岡崎城の家康に迎えられた。

 

 このころの家康は、武田家とも接点のある奥三河の奥平信昌(おくだいらのぶまさ)を懐柔しようとしており、そのための政略結婚として天正4年(1576)信昌に嫁いでいる。その後、信昌との間に4男1女をもうけた。

 

 関ヶ原の戦い後、夫の信昌が美濃加納10万石に封じられると、亀姫も加納に移った。そのため、加納御前あるいは加納の方などと呼ばれている。

 

 

信康・瀬名の死は関係がなかった!?

■徳姫(とくひめ/織田信長長女)

 

織田信長
家康は戦国で絶大な権力をもった信長の娘と自身の長男を結婚させた。

 

 永禄2年(1559)、織田信長の長女として生まれた。母は、生駒家宗(いこまいえむね)の娘とされる。清須同盟の成立にともない、家康の長男信康の正室として迎えられた。夫婦関係はあまりよくなかったのか、夫・義母の不行跡や武田勝頼への内通を父の信長に訴えたという。その結果、信康は自害に追い込まれ、瀬名は殺害されてしまった。

 

 間接的にではあるが、信康や瀬名は、徳姫に殺されたといわれることもある。しかし、信康と死別したあとも、徳姫は徳川家から大事にされており、徳姫の訴えと信康・瀬名の死は、直接的には関係ないものと思われる。

(『歴史人』2023年5月号「徳川家康 人名目録」より)

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