×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画
歴史人Kids
動画

長篠・設楽原の戦いで徳川家康は織田信長の出方次第で態度を変えていた?

徳川家康の「真実」⑲


長篠・設楽原の戦い開戦前、徳川家康は織田信長の出方次第で自らの出方も考えざるを得なかった。


 

■家康・信長連合軍合計4万が設楽原に布陣し武田勢と睨み合う

 

設楽原古戦場馬防柵
戦国時代に最強と恐れられていた武田の騎馬軍団に対抗するために織田・徳川連合軍が考えた作戦でつくられたとされる。

 

 長篠・設楽原(ながしの・したがはら)の戦いにおいて、徳川家康が動員できる兵力は8000ほどとみられた。武田軍に囲まれた味方の城・長篠城の救援に単独で赴いても、勝算はない。織田信長からの援軍を得られるのが最善であるが、信長自身は畿内での戦いに忙殺されていて、応じてもらえるかどうかはわからない。長篠城を見捨てて野田城や牛久保城あたりで迎え撃つことも可能であるが、長篠城を見捨てたことで、三河の国衆が徳川方から離反することは必至だった。

 

 したがって少なくとも、家康としては救援する姿勢をみせなければならなかったのである。しかし、単独での救援が難しい以上、織田軍の到着を待つというのが家康の下した決断だった。ただ、信長からの救援がない場合には、武田方と和睦することも考えていたのではなかろうか。

 

 家康は早くも5月10日には信長に救援を要請した。そして5月13日には信長が岐阜城を出陣して翌14日には岡崎城に着いている。信長も、長篠城を守らなければ家康との同盟が崩壊すると腹をくくったのであろう。岡崎城に集結した軍勢の数は、織田軍が3万余、徳川軍が8000余とされる。

 

 織田信長は5月15日に嫡男・信忠(のぶただ)とともに岡崎城を出陣すると、16日には家康の属城である牛久保城を経て長篠へ向かった。17日は野田で野営し、18日には長篠城の2500メートルほど西に位置する設楽原に着陣している。そして家康自身も、17日、嫡男・信康(のぶやす)とともに岡崎城を出陣した。そして、その日の夜は野田に野営し、18日、信長と同じく設楽原に着陣している。

 

武田勝頼
父・武田信玄亡き後も勝頼は武田家を統率し、勢力を保った。(国立国会図書館蔵)

 

 設楽原は、「原」とはいっても、一帯は窪地になっており、平野部は連吾(れんご)川をはさんだわずかな土地しかない。織田・徳川連合軍は、夜になると連吾川に沿って馬防柵(ばぼうさく)・土塁を整備した。一説によると、信長は岐阜を出陣するときから、柵を作るための木と縄を用意させていたというが、実際には三河を本国とする家康が準備していたものらしい。

 

 そのころ武田軍は、長篠城の周囲の山に、鳶ヶ巣(とびがす)山砦・中山砦・久間(ひさま)山砦・姥ヶ懐(うばがふところ)砦・君が臥床(きみがふしど) 砦という五つの砦を築いていた。長篠城へ兵粮・弾薬などが運ばれるのを阻止しようとしていたのである。

 

 織田・徳川連合軍の着陣を知った武田方では、決戦が近いと判断して、19日夜から20日にかけて長篠城の包囲を解くと、押さえとして3000ほどを砦に残したまま、残る1万2000の軍勢で寒狭川を渡った。そして、織田・徳川連合軍が布陣する設楽原に近い清井田(きよいだ)付近まで進軍して本陣をおき、設楽原に進出したのである。

 

監修・文/小和田泰経

(『歴史人』2022年8月号「徳川家康 天下人への決断」より)

 

KEYWORDS:

過去記事

歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

最新号案内

『歴史人』2025年10月号

新・古代史!卑弥呼と邪馬台国スペシャル

邪馬台国の場所は畿内か北部九州か? 論争が続く邪馬台国や卑弥呼の謎は、日本史最大のミステリーとされている。今号では、古代史専門の歴史学者たちに支持する説を伺い、最新の知見を伝えていく。