徳川家康の右腕・天海に並ぶもう1人の黒衣の宰相、法務ブレーン「金地院崇伝」とは?
「どうする家康」 天下人の選択をささえたブレーンたち 【第11回】
前回紹介した南光坊天海(なんこうぼうてんかい)とともに、僧侶ながら家康のブレーンとして活躍した金地院崇伝(こんちいんすうでん)。政治・外交で活躍した天海に比べ、法律の策定など事務分野での活躍が目立つ。意外に知られていない金地院崇伝の事績を浮き彫りにしていく。

徳川家康に仕えた20人の主要家臣団を描いた絵画。これ以外にも多くの作品があり、描かれた武将、その数も異なる。「徳川二十将図」出典/ColBase(https://colbase.nich.go.jp/) など
天台宗(てんだいしゅう)の南光坊天海と同様に「黒衣の宰相(こくえのさいしょう)」と呼ばれた金地院崇伝は、禅宗(ぜんしゅう)の僧であった。祟伝は、僧でありながら事務能力に長けており、しかも謹厳実直(きんげんじっちょく)という性格でもあった。家康(いえやす)は、天海は違った立場で祟伝を便利に使った。祟伝の家康と徳川幕府への最大の功績は、数々の法度(法律)をつくったことであろう。
いわば、祟伝は法務大臣(あるいは法務省官僚)のような立場にいた。徳川政権を永久化するための支配体制は、法律による徹底、と家康は考えており(あるいは、祟伝などと話し合った結果かも知れない)、いくつもの法度を祟伝につくらせた。祟伝は、家康の意を汲んでかなり細やかな法律を作り上げたのだった。
祟伝は、若くして京都・南禅寺(なんぜんじ)の住持(じゅうじ)となっていた。文才もあり、有職故実(ゆうそくこじつ)にも通じていたことから、家康に事務スタッフとして登用された。家康に信任された証は、登用2年後には駿府に金地院という寺を建立して貰い寺領も受けるようになったことだ。一方で2代将軍・秀忠(ひでただ)にも重用され、江戸と駿府の往復旅費として、常に50人扶持(ふち/1人扶持は1日5合の米が年間支給されることをいう。50人扶持は約100石)が与えられた。
最初のうち、家康は祟伝にキリスト教禁令の法案作成を命じた。その結果、祟伝には司法能力があると見込まれ、寺社・朝廷・大名統制の法度(法律)立案者として重要な役割を与えられるようになった。
慶長14年(1609)に少将・猪熊教利(いのくまのりとし)が後陽成(ごようぜい)天皇の寵愛する典侍(てんじ)・持明院基子(じみょういんもとこ)と密通する事件が起きた。これをきっかけにして、それまで朝廷の内部にまで介入できなかった家康の徳川幕府は、朝廷及び天皇の処罰権にまで介入した。豊臣家を滅ぼした元和元年(1617)7月、祟伝が起草した「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびくげしょはっと)」が発布され、家康が望んだ朝廷統制が法的に整備されることになった。
これを契機に、朝廷同様に伝統的な権威を持ち、独自に運営されている寺社勢力に対しても、幕府の力を持って徹底した統制が加えられるようになる。祟伝の宗教統制は、各宗派の本寺本山を一本化して、末寺を統括させる一方で、徳川幕府が本寺本山を司法・行政の両面から支配するという体制を創り上げたのだった。つまり、寺社の機能的な権能はすべて幕府の許可を必要とする支配システムを確立したのだった。
そして祟伝は、大坂の陣が終了した頃から「武家諸法度」の制定に取り掛かった。祟伝は、徳川幕府の基本法を形成したのである。
元和元年(1616)4月、家康が亡くなると、祟伝と天海はその諡号(しごう。贈り名)について激しく対立した。「権現」を主張する天海に対して、祟伝は「明神」を言い立てたが、結果として天海の「権現」に決定した。だからといって、2人が不仲ではなかったという。祟伝は寛永10年(1633)に病没。享年64。