伏見城攻め1600年<その3>~20倍以上の兵力と渡り合った籠城の瓦解(がかい)
戦国武将の城攻め【解体新書】#027
開城勧告を受けた元忠が拒否、西軍は士気ふるわず

甲賀衆の内応者が火をつけた CG/成瀬京司
7月18日に石田三成(みつなり)方から開城勧告を受けた鳥居元忠(もとただ)がこれを拒否すると、次の日に早くも城は三成方3万の大軍の包囲を受けた。
兵を率いるのは、宇喜多秀家(うきたひでいえ)以下、小早川秀秋(こばやかわひであき)・島津義弘(しまづよしひろ)といった諸将である。西軍では、伏見城と丹後田辺(たんごたなべ)城、近江大津(おうみおおつ)城など近畿の東軍方の重要拠点を攻めて足場を固め、士気を高めようという基本戦略をとったのだ。
続いて23日、毛利秀元(もうりひでもと)1万の軍勢もこれに合流したが、3日後に近江に転進している。この間、城は落ちない。
それもそのはずで、攻撃側の副将格・小早川秀秋が事前に「伏見城に入ってともに戦いたい」と元忠に申し入れていたり、島津義弘も「家康殿から頼まれていた」と同じく入城を申し入れていたことでもわかるように、西軍の士気はふるわず、互いに疑心暗鬼だったからだ。みな、横の味方の模様を眺めながらワァワァと空の気勢をあげ、鉄砲を適当に撃つに過ぎない。
対する元忠らは、家康から
「伏見城には銃弾の蓄えは少ないが、金銀はいくらでもある。いざとなればそれを鋳(い)つぶして弾丸にし、撃ち放せ」
とまで言い置かれ、決死の覚悟に燃えていたから、簡単に城が落ちるはずもなかった。
だが、三成が督戦に訪れた29日を境に、西軍の目の色は変わる。三成は
「武名の汚れになるぞ」
と彼らのプライドに訴えたのである。
(次回に続く)