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小手森城(おでもりじょう)攻め1585年<その3>~城兵を外に引き出し短時間で勝敗を決する戦術

戦国武将の城攻め【解体新書】#023

片倉景綱が鉄砲を撃ち込み伊達成実が降伏を依頼

 

東北での新しい戦い方を始めた伊達政宗 東京大学史料編纂所所蔵模写

 

 政宗にとっては城兵を外に引き出し短時間で一気に勝敗を決するのが最善の戦術なのだが、いくら誘いをかけても敵は乗ってこなかった。

 

 日が暮れてしまい、やむを得ず伊達軍が陣所に引き揚げようとしたところを、背後から城兵が、南から蘆名(あしな)・畠山(はたけやま)勢が、攻めかかって来る。

 

 政宗は軍勢を三手にわけ、東の山ぎわに500の鉄砲隊を展開させて撃退した。

 

 26日には片倉景綱(かたくらかげつな)が鉄砲をさかんに撃ちかけてみたが、城内からは兵は出撃して来ない。政宗も

 

「この分では攻め落とすのに10日や20日ぐらいもかかるのではないか」

 

 と案じるのだが、27日になってひとりの使者が城を出、伊達成実(しげざね)の陣所にやって来た。使者は、

 

「包囲されてしまってはいずれ落城するだろうから、今の内に開城して将兵は小浜城(おばまじょう)へ退却したい」

 

 と申し入れたのである。これに対して政宗はこう回答している。

 

「戦ったあとで城を明け渡して退去するというのは問題ないが、小浜へ移ることはまかりならぬ。伊達郡の方(小手森城の北方)に行くのなら良い」

 

 小手森城の戦力が小浜城に合流することを避け、小浜城攻めを容易にしようという計算から出たものだが、一方では受け入れがたい条件をつきつけて講和を拒否してやろうという狙いもあったかもしれない。政宗にとっては目先の時間よりもより大局的な省エネルギーを志向した、といったところか。

 

(次回に続く)

 

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橋場日月(はしばあきら)
橋場日月はしばあきら

大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『戦国武将の必勝マネー術』(講談社)、『戦国武将の兄弟姉妹たち』(辰巳出版)、『戦略は日本史から学べ』(クロスメディア・パブリッシング)など。

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