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小手森城攻め1585年<その2>~関東の北条氏と連携し攻城に踏み切る

戦国武将の城攻め【解体新書】#022

大内定綱の強気の背景には会津の蘆名氏が

蘆名氏の全盛期を築いた盛氏 東京大学史料編纂所所蔵模写

 

 しかし、政宗は大内定綱に対する警戒を解こうとはしなかった。

 

「雪が深くて屋敷を建てることもできませぬので、いったん本拠の小浜に戻り、妻子を連れて戻ってきます」

 

 と米沢を退去した定綱が、天正13年(1585)春の雪解けの季節になって催促の使者を送っても戻って来ないのを見て、やはり臣従は虚言か、と討伐を決意したのである。以前から定綱攻めを政宗に求めていた田村清顕(きよあき)も、

 

「定綱退治に出馬されるとのこと、本望満足申すまでもなし」

 

 と米沢へ喜びの弁を書き送っている。

 

 定綱の強気の背景には会津の蘆名(あしな)氏がいる、とみた政宗は、まず蘆名氏を攻め、続いて関東の北条氏に連絡して常陸の佐竹氏を牽制するよう運動する。そして定綱に対してはとりあえず田村清顕に援軍を添えて担当させる事とした。閏8月7日のことである。

 

 ところが、定綱配下の青木修理(しゅり)がこちらに寝返ることを約束したという報せが入ると、政宗は急遽自身の出馬を決意する。そして17日に小手森の東の蕨平(わらびたいら)という土地で田村清顕と合流した。

 

 政宗が約5000の兵を率いて定綱の籠もっていた小手森城に攻めかけたのは、天正13年(1585)閏8月24日である。政宗は北から、田村清顕は東から城攻めに臨んだ。

 

 この日、定綱はひそかに城を脱出し、本拠の小浜城に戻っている。小浜城に来援していた蘆名氏や二本松城の畠山氏などの兵が出撃し、伊達軍を挟み撃ちにする構えを見せていた。

 

 城内には城主の菊池顕綱(あきつな)以下500の兵しかいないものの、前述のように周囲は湿地や池ばかりで、大人数の兵が運動できる余裕がない。大内らにすれば、狭隘(きょうあい)な地に布陣している伊達軍が小手森城(おでもりじょう)に攻めかかって手こずっているところを、一気に捕捉殲滅する好機だったのである。

 

(次回に続く)

 

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橋場日月(はしばあきら)
橋場日月はしばあきら

大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『戦国武将の必勝マネー術』(講談社)、『戦国武将の兄弟姉妹たち』(辰巳出版)、『戦略は日本史から学べ』(クロスメディア・パブリッシング)など。

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