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小手森城(おでもりじょう)攻め1585年<その4>~監視役までつけ撫で切りを確認させた「伊達の撫で切り」

戦国武将の城攻め【解体新書】#024

信長が一向一揆攻めで見せた「根切」同様、新時代を鮮烈に印象づける

 

見せしめの小手森城内殲滅(せんめつ)戦

 

 和議が決裂すると、政宗(まさむね)はただちに総攻撃命令を下した。

 

「攻め方が手ぬるいから城兵も厚かましい要求をするのだ。本丸まで攻め落としてしまえば、伊達郡にも退去するだろう」

 

 ハッパをかけられて成実(しげざね)ら伊達諸隊は城に火攻めをしかけた。もともとが「きこりの城」(もっとも、小手森城の近くにはこれも大内氏の属城だった樵山城というものもある。この城とは別物なので、ここに注記しておく)だけに、火が木々に燃え広がるとあっという間に城は炎の洗礼を受け、城兵たちはパニック状態に陥る。

 

 そこを見透かした伊達軍は一気に攻撃を開始した。

 

 8000丁(この数は誇張だろう)の鉄砲を撃ちかけながらの白兵戦によりわずか4時間ほどで城は落ち、政宗の「なで切」(『成実記』)という命令により城内の800人が斬り殺されたという。

 

 その中には農民や女性も多く、さらに牛や馬までが殺戮(さつりく)の対象となった。

 

 これが有名な「伊達の撫で切り」なのだが、政宗はわざわざ監視役までつけて撫で切りを確認させたと伝えられている。

 

 彼はなぜ残酷な処分を命じたのだろうか。大内定綱(おおうちさだつな)への怒り、国人領主たちへのみせしめなどもあったろう。事実、政宗は直後に伯父の最上義光(もがみよしあき)や家臣に

 

「女・童は申すに及ばず、犬まで撫で切りになさせ候」

 

 と誇らかに書き送っている。

 

 だが彼の一番大きな狙いは「新時代の到来を宣言する」ことだったのではないだろうか。 

 

 織田信長が長島一向一揆(ながしまいっこういっき)攻めや越前(えちぜん)一向一揆攻めで見せた「根切」(皆殺し、根絶やし)を、東北でも実行してみせたのである。なあなあで事を収めずに徹底的に敵を排除する力とスピードが、新しい時代のリーダーに必要な資質だと考えた政宗の、強烈なパフォーマンスだった。

 

 翌月、政宗の計算通り、怖れをなした定綱は小浜城(おばまじょう)を捨て亡命し、東北の戦国時代は新たな段階を迎えることになる。

 

(次回に続く)

 

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橋場日月(はしばあきら)
橋場日月はしばあきら

大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『戦国武将の必勝マネー術』(講談社)、『戦国武将の兄弟姉妹たち』(辰巳出版)、『戦略は日本史から学べ』(クロスメディア・パブリッシング)など。

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