伏見城攻め1600年<その1>~関ヶ原の口火を切った戦国屈指の堅城攻城戦
戦国武将の城攻め【解体新書】#025
地名の由来・伏流水を活かした水堀のある伏見城

枡形虎口によって集中砲火が可能だった伏見城
伏見城には指月(しづき)山伏見城と木幡(こはた)山伏見城の2つがある。指月山の方はもともとは豊臣秀吉が関白の位と聚楽第(じゅらくてい)を養子の秀次(ひでつぐ)に譲り、隠居するための屋敷だったのだが、文禄2年(1593)に朝鮮の役の講和の使者を迎えるにあたって外交施設が入り用となったこと、さらにこの年誕生した秀頼(ひでより)に大坂城を譲りたいと考えたために新たな城として翌年に大改修をほどこされた。
だが、この城は慶長元年(1596)7月に発生した慶長伏見地震によって、あっけなく倒壊してしまう。そこで秀吉が次に城地に選んだのが、指月山の北東隣にある木幡山であった。地震の翌日には早くも設計が命じられ、さらに次の日には着工と、常識はずれの迅速さで始まった工事は、翌年5月に天守と御殿の完成を見ている。
城は木幡山の斜面を切り削って作り出した断崖などにより防御力を強められた平山城で、最高所の本丸の周囲に二の丸以下の曲輪(くるわ)群が配された。高い石垣が土台を固め、建物には金箔貼りの瓦が用いられて燦然と光を放っていたことだろう。各所の門には枡形虎口(ますがたこぐち)がしつらえられていたようだが、これは西日本の城郭に見られる代表的な特徴で、侵入しようとして来る敵に対し側面から弓鉄砲の攻撃を加えられる施設として東日本の「丸馬出(うまだし)」同様の機能を持つ。
『洛中洛外図屏風』の伏見城の情景を見ると、その堀には大坂城同様、2階に望楼を備えた廊下橋も架かっている。三重塔や二重塔も各地から没収され移築されていた。
朝鮮の儒学者・姜沆(かんはん)は著書『看羊録』でこの城について「秀吉は城を囲むように近臣たちを住まわせていた」と記している。江戸時代に作られた絵図を見ても、城下には諸大名の屋敷がビッシリと周囲に建ち並んでいる。これらは伏流水の豊富な土地柄(「伏水」が伏見の地名の由来である)を活かした水堀とともに伏見城の惣構(そうがまえ)を形成していた。
(次回に続く)