伏見城攻め1600年<その2>~争乱の対象になった天下人の城
戦国武将の城攻め【解体新書】#026
重臣大名たちの名も付された秀吉が作り上げた城下町

かつてあった伏見城 模擬天守 写真/フォトライブラリー
秀吉がこの木幡山(こはたやま)伏見城で過ごした時間は、わずか1年あまりに過ぎない。慶長3年(1598)8月18日、伏見城で彼が波乱の生涯を終えると、城の運命にも暗雲がたれこめ始めるのである。
秀吉は死にあたり、幼い秀頼を守り立ててくれるようにと五大老・五奉行制を定め、徳川家康を政務を代行する筆頭大老に任じた。秀吉は「家康が伏見城の天守に登りたいと言えば登らせよ」と遺言している。
伏見(ふしみ)城は天下人の城であり、その天守に自由に登る権利を与えられた家康は、事実上の天下人と言ってよい。実際、伏見城に家康が入ると人々は「天下様に成られ候」と噂した(『多聞院日記』)。
だが、天下人の城は、それゆえに争乱の対象となる。秀吉死後の豊臣家の内紛に乗じ、みずからの立場を固めようと図った徳川家康は、大老として同僚だった前田利長(としなが)を豊臣家への謀反の容疑で失脚させ、続いて同じく上杉景勝(かげかつ)にも謀反の疑いありとして討伐(とうばつ)を決定した。
慶長5年(1600)6月18日、景勝の会津に向け伏見城を出陣した家康(東軍)は、城の留守居として重臣・鳥居元忠(もとただ)を主将とし内藤家長・松平近正(ちかまさ)・松平家忠(いえただ)らを付属させ、1800の兵を残していった。
留守番兵を少数にとどめたのは、反家康派の前奉行・石田三成に隙を見せて挙兵させ、逆に討ち取って天下を獲ろうと考えたのだ、などとも言うが、果たして三成は「天の与え」(上杉家執政・直江兼続に宛てた三成書状より)と喜び、毛利輝元(てるもと)や宇喜多秀家(うきたひでいえ)、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)をはじめとする諸大名をまとめあげて、打倒家康の兵を挙げた(西軍)のである。
(次回に続く)