信玄の近習から侍大将に取り立てられた剛将・土屋右衛門尉昌次
孫子の旗 信玄を師匠とした武将列伝 第2回
徳川家・剛勇の首級を挙げた功績から信玄より「信」の一文字を授かる

清和源氏の血筋にあたり、主君の武田家(甲斐源氏)よりも名家にその出自をもつ。武田信玄の薫陶を受け、22歳で武田軍の侍大将に抜擢されたエリートでもあった。「紙本著色武田二十四将図」(部分)/山梨県立博物館蔵
武田家臣団には、源氏の血脈を持つ武将たちも多い。武田家の「両職(最高位・家老)」とされた板垣信方(のぶかた)も甘利虎泰(あまりとらやす)も、その先祖を辿れば「甲斐源氏」に行き着く。
しかし土屋右衛門尉昌次(つちやうえもんのじょうまさつぐ)の場合は、甲斐源氏ではなく直流ともいえる清和源氏の血筋に当たる。甲斐源氏の祖である新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)らの兄・義朝を実父とし、源頼朝・義経らの異母兄弟に当たる人物が鎌田光政(みつまさ)といい、昌次の始祖であった。鎌田氏は、甲斐に招請され名門・金丸氏を継承した。その金丸氏は代々、武田家の重臣として尽くした。昌次の父・金丸虎義(とらよし)は勇武の将として知られ、板垣信方とともに信玄(晴信)の傅役(もりやく)となった。
虎義の二男が平八郎(昌次)であり、天文13年(1544)に生まれた。信玄が父・信虎を追放して甲斐国守護職に就いて3年目のことである。信玄とは23歳の年齢の開きがある。その後、昌次は信玄の奥近習(おくきんじゅう)となった。同時期に真田昌幸(まさゆき)も奥近習になっている。
その初陣は永禄4年(1561)9月の第4回川中島合戦で、本陣で信玄を守った働きを買われて、信玄から金丸家の親族衆でもあった「土屋」姓を与えられ、土屋平八郎昌次と名乗った。その後、22歳で騎馬50騎を預かる侍大将に抜擢され、さらに6年後には100騎を率いて、信州先方衆7衆の統率者にまで栄進した。これを機に、右衛門尉に叙(じょ)せられたという。
信玄の薫陶を得続けた昌次は、信玄譲りの合戦を身に付けて、数多の合戦で活躍した。
昌次がその名前を高めたのは、元亀(げんき)3年(1572)12月、徳川・織田連合軍を相手の遠州・三方ヶ原(みかたがはら)合戦である。武田軍の最前線にいた昌次は、山縣・小山田・内藤・小幡らの騎馬軍団とともに徳川軍の左翼に突っ込んだ。相手は小笠原長忠(ながただ)・本多忠勝(ただかつ)・青木広次(ひろつぐ)・中根正照(まさてる)ら徳川軍の精鋭であった。
先頭を切る昌次の前を身の丈2メートルといわれる大男が遮った。徳川勢の剛将・鳥居四郎左衛門信元である。信元は大きな太刀(たち)を構えて昌次に馬上から斬り掛かる。昌次は、これを受けての太刀打ちとなった。誰も手を出さない一騎打ちは、やがて馬上から下りて、組み打ちとなった。圧倒的に昌次の分が悪い。相手が大きすぎるのだ。だが、五分五分の戦いも大きすぎるだけに鳥居が先に疲弊して力尽きた。昌次は、鳥居の首級(しるし)を挙げた。
これには両軍から讃辞が与えられた。鳥居は徳川家でも剛勇を誇っただけに、その剛勇の将を敗った昌次は「武田には鳥居を凌ぐ豪の者がいる」と恐れられたのであった。
信玄はよほど弟子ともいえる昌次の奮戦が嬉しかったのであろう。感状を与え、その中で信玄の一字を与え「信近」と名乗るように、と記している。
その後間もなく、信玄は信州・駒場で病死する。主君で師匠でもあった信玄の死に際して昌次は「家臣たる者、主君の後を追って殉死すべきだ」と叫び、自刃(じじん)しようとした。それを止めたのが、馬場信春(のぶはる)であった。「死ぬのは簡単なことだ。だが、それでは御屋形様(おやかたさま)のご遺志に背くことになろう。今後の武田家に忠誠を尽くしてこそ武門の道ではないか」と諭されて、昌次は自刃を取り止めた。昌次同様に殉死を考えていた若い武将たちは、いずれも自刃を止めたという。
勝頼の時代に入ってからも、昌次は遠州・高天神城(たかてんじんじょう)攻略戦など多くの戦いに手柄を立てたが、天正3年(1575)5月の長篠合戦で華々しい討ち死にを遂げている。享年31。
兄・昌次の戦死の後に土屋姓を継いだのが5弟・惣蔵(そうぞう)である。惣蔵は、天正10年3月、天目山(てんもくざん)での勝頼主従滅亡に際して、敵軍を引き受けて「片手千人斬り」という勇名を馳せた勇者である。なお、土屋一族の末裔は、徳川家に仕え、後には常陸・土浦藩9万5千石の大名として幕末まで栄えている。