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大親分・国定忠治の最期「赤城の山も今夜を限り」の実態

江戸の世を沸かせた侠客の武勇譚と共助力・第4回

忠治の子分との別れの場面が喝采を浴びた昭和

 

赤城山での子分との別れが見所だった。『国定忠治実記』中村芳松編/国立国会図書館蔵

 

 追い詰められた忠治の逮捕劇は、講談や芝居、時代劇映画などで子分思いのヒーローとして描かれてきた。「上州一の大親分」だけに子分たちを赤城山に集め、しんみりした口調で別れを告げる。

 

「赤城の山も今夜を限り、生まれ故郷の国定村や縄張りを捨て、国を捨て、可愛い子分の手前(てめえ)たちとも別れ別れになる首途(かどで)だ」

 

 そこで一息つくと、さらに引き抜いた刀を月光にかざしながら、ことばを継ぐ。

 

「加賀国小松(かがのくにこまつ)の住人五郎義兼(よしかね)が鍛えた業物(わざもの)、万年溜まりの雪水に浄めて、俺にゃあ生涯、手前という強い味方があったのだ」

 

 講談を演じている寄せでは、この場面になると、決まって拍手が沸いたものだった。

 

 しかし、忠治の最期は実は違うようだ。

 

 嘉永3年(1850)7月21日夜の8時頃、お町と同衾(どうきん)中に倒れた。脳溢血(のういっけつ)である。

 

 体は麻痺し、口もきけない。お町は実弟の友蔵と一緒に、忠治を大八車(だいはちぐるま)に乗せてお徳の家に運んだ。お徳は同衾中の発病と気づき、追い返す。

 

 やむなくお町は、忠治を田部井(ためがい)、現在の伊勢崎市の名主・西野目宇右衛門(うえもん)宅へ運び、かくまった。しかし、長続きしない。

 

 8月24日、関東取締出役の手が回り、逮捕され、江戸送りとなったのである。

 

実は絵のような大立ち回りでの捕縛ではなかった。
『国定忠治実伝』大西庄之助編/国立国会図書館蔵

 

 

刑場までの道中、上州特産絹織物仕立ての衣装だった男伊達・忠治

 

 忠治は唐丸籠(とうまるかご)で送られ、1221日、吾妻郡大戸(おおど)村の関所前で磔刑(たっけい)に処せられた。

 

 記録によれば、忠治は唐丸籠の底に緋縮緬(ひちりめん)と白縮緬(しろちりめん)の座布団を5枚重ねて座っていた。身につけていたのは、白縮緬の下着に白綸子(りんず)の上着。丸くけの同帯を前でしめ、首には大成数珠(だいなるじゅず)をかけていたという。

 

 この忠治の死に装束は、お徳がととのえたものだった。

 

 磔台で長槍を持つ刑吏と向き合う忠治や、13度まで目を見開きながら槍を受け、14度目でついに忠治は瞑目(めいもく)するといった話が伝えられるが、大勢が見守る中、極めて凄惨(せいさん)で残酷な刑により、41年という短く激しい人生を終える。

 

 当時から国定忠治の武勇伝や浪曲などは演じられ、昭和に至るまで広く語り継がれていくのである。

 

(次回に続く)

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中江克己なかえかつみ

北海道函館市生まれ。河出書房などの編集者を経て歴史作家に。著書は『大江戸〈奇人変人〉かわら版』(新潮文庫)、『忠臣蔵と元禄時代』(中公文庫)、『お江戸の意外なモノの値段』(PHP文庫)、『日本史の中の女性逸話事典』(東京堂出版)など多数。

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