小谷城攻め1570〜73年<その2>~戦国最大級の山城を攻略した信長の戦略
戦国武将の城攻め【解体新書】#010
浅井方の山本山城と小谷城との連携で防衛線を築く

姉川の戦い以来、朝倉氏に従った浅井長政肖像 東京大学史料編纂所所蔵模写
小谷城は、標高約400メートルの小谷山の東尾根を巧みに利用した梯郭式(ていかくしき)山城である。
小谷山は、最高所の大嶽城(標高494メートル)を中心に馬蹄形を成しており、広い地積が取れる東尾根に本城部分が、西尾根にいくつかの独立砦が築かれている。
とくに標高300メートルほどの東尾根は、大広間や本丸と呼ばれる一辺50メートル級の巨大な曲輪(くるわ)が築けるほど広い地積が取れる尾根で、山を背とした梯郭式山城を築くには理想的な地形であった。
しかし浅井家の統治基盤は脆弱で、直臣だけで小谷山全体を守るのは至難の業であった。しかも東尾根だけを守備する兵力にも事欠いていた。
そこで本丸の背後に大堀切を入れることで城域を限定し、その上部は一城別郭的な扱いとした。
むろん本丸よりも高所に位置する尾根にも、何らかの処置を施さねばならない。これが中ノ丸、京極丸、小丸、山王丸、六坊と続く曲輪群である。
これらの曲輪には、京極氏や寺社勢力など浅井氏直臣とは異なる勢力に守備を任せ、さらに小谷山最高所の大嶽城と西尾根の守備を朝倉勢に託すことで、小谷山全体の守備力を強化しようとした。
結局、小谷城は500メートル余も曲輪が連なる、未曽有の規模の梯郭式山城となったが、あまりに城域が広いため、寄せ集め集団で守備する困難が生じていることは明らかであった。
(次回に続く)