Ifの信長史 第10回~伊達ら東北勢を降し天下布武の覇業へ~
阿武隈川と逢瀬川の三角洲で東北勢を降す
一大攻防戦の終盤に起きた異変

清正らを降す信長 イラスト/佐藤正
「なんという為体じゃ」
怒髪天を衝いた信長はみずから軍馬を押し出し、翌年の晩春、北を指した。先鋒となったのは嫡男信忠で、本軍には直子の息子信正もいる。村井貞勝の嫡男貞成は京都所司代であったがやはり参陣した。いってみれば、信長の旗本と連枝衆のすべてが動員された大軍勢だった。なにもかも蹴散らし、皆殺しにしてくれると信長は息捲き、郡山城に入り、奥州聯合を相手どって一大攻防戦に突入した。
この攻防は延々3カ月も続き、双方は極度に疲弊した。だが、奥州聯合の方が物資を供給する兵站線が短い分、有利だった。信長は、城が阿武隈川と逢瀬川の造り出した三角洲にあることから、両川に沿って長大な防衛線を築いていたが、それも徐々に破綻し、次第に身動きが取れぬようになっていった。
「もはや、これまでか」
そう思った矢先だった。敵方の後方が大いに乱れ始めたのである。遠望すれば「南無阿弥陀仏」や「信心正因、称名報恩」などと書かれた旗が翻り、喚きを上げた大集団が奥州聯合に襲いかかっているのが見えた。明らかに出羽一向一揆の者たちだった。
信長は最後の力を振り絞って城を出て、諸将もろとも奥州方へ突撃した。賭けは実り、勝つことができた。結果だけ見れば圧倒的な勝利だった。が、信長は腑に落ちない。いったいどういうことなのか。一向一揆と自分とは積年の仇同士のはずで、怨まれこそすれ助けられるような立場にはない。
「のう、信長公」
火縄銃を担いだ雑賀孫市である。味方になったり裏切ったり、ときには狙撃してきたり、まったく掴み所のない、どれだけ憎んでも憎み足りない雑賀衆の棟梁だった。この男が、本願寺顕如の言葉を伝えてきた。もはや、戦の時代ではないと。織田信長はすでに天下人である。天下人が徒に血を流したところで得るものはない。怨みを買ったところで国は富まぬ。双方、和睦し、刀槍を捨ててはどうか。ならば、本願寺も未来永劫、武器は持たぬ。民草の幸福と極楽往生だけを願い、信長が築き上げてゆく世を見つめてゆこう、と。
信長は手にしていた太刀を放り捨て、京への道を戻っていった。
(次回に続く)