Ifの信長史 第8回~瀬戸内海で天下分け目の決戦へ~
南蛮攻めのために製造した巨大な鐡甲船で撃破
南蛮攻めのために製造した巨大な鐡甲船で撃破
秀吉、長秀、信孝のそれぞれを中国や四国の懐深くまで誘い込み、織田家の兵を完全に分散させてしまえば、瀬戸内海ががら空きとなる。この海に一千艘の戦船を浮かべれば、信長がようやく竣工させた大坂城の本丸まで一直線で進撃できるであろう。そんな恵瓊の策は見事に進んだ。
たとえば秀吉は、毛利家の拠点である広島城を攻めようとしていたが、そのための本陣にするべく安芸国の吉田郡山城を攻略した。巧みにそう仕向けたのだが、吉田郡山城は内陸にある。海の戦いに援兵は出せない。
信長は巨大な鐡甲船10隻を繰り出した。南蛮攻めのために製造したものだったが、かつて村上水軍を壊滅した鐡甲船をさらに巨大化させたものだった。かくして、村上水軍を中核とした中国・四国・九州の聯合艦隊一千艘を相手どった大海戦が展開したのだが、この100倍にあたる数の敵を、鐡の戦艦は恐ろしいほど見事に撃ち破ったのである。
もっとも考えれてみれば当然で、火縄銃と大筒が真っ向から撃ち合い、しかも敵は木造、こちらは重厚な鐡板を貼り巡らせた装甲艦である。火力も防禦も圧倒的な違いがあった。
さらにいえば、信長ほど過激な采配を執る者もいない。燧灘を封鎖するように航行する鐡甲船から無数の砲弾が発射され、敵船が一隻残らず沈むか、大筒の砲身が焼け爛れて使い物にならなくなるまで、信長は一斉射撃を繰り返させた。
「此の一戦で、勝負は決まった」
そう判断したのは恵瓊で、こうしたあたりこの臨済宗東福寺派の禅僧は気持ちのいいほどさっぱりしている。
恵瓊は毛利家と長宗我部家の降伏の使者として、信長のもとへ参上した。しかも、足利義昭を連行するようにしてきたのは流石だった。信長は、かれらの降伏を受け容れた。だけでなく、名護屋城を築き、九州征伐の大号令を掛けた。
秀吉、長秀、信孝の3名がそれぞれ巨大な軍団をひきい、横一列になって南へ進撃した。すべてを薙ぎ払うような大進撃によって九州の諸大名は瞬く間に降伏し、ついに天正15年(1587)5月、島津義久が降伏することで南方における一連の軍事作戦は終わりを告げた。信長は、西日本を手に入れたのだった。
(次回に続く)