Ifの信長史 第7回~連合軍の安宅船を攻撃する織田の巨大鉄甲船~
戦国随一の交渉人、安国寺恵瓊が反信長同盟を成立させる
戦国随一の交渉人、安国寺恵瓊が反信長同盟を成立させる
天正14年(1586)7月27日。信長、数えて53歳。
この日信長は、瀬戸内海の燧灘にいた。みずからは白木造りの大船に乗り込み、10隻の鐡甲船を従えている。拠点としたのは小豆島で、ここから波を蹴って西航した。北岸では中国方面軍の司令官である羽柴秀吉が西進、南岸では四国方面軍の司令官である神戸信孝が進撃を続けている。要するに織田軍団による一大西進作戦だったが、信長が艦隊をひきいて西航しているのは理由がある。
本能寺の変が勃発してからというもの、毛利家の外交僧・安国寺恵瓊が隠密裏に四国や九州を駈けずり回り、足利義昭を神輿にした反信長同盟の構築に邁進していた。中国地方は毛利輝元の支配するところとなっていたから問題はないし、瀬戸内海も毛利家に懐柔されている村上元吉が海賊衆を束ね、巨大な水軍を編成している。四国についても長宗我部元親・盛親がいっときは信長に臣従する気配を見せはしたものの、今は毛利家と一枚岩のような同盟を築いていた。
厄介なのは九州で、大友、龍造寺、有馬、島津などが割拠し、互いに譲らず、反信長の同盟を構築するのは甚だ骨の折れる役回りだった。
ただ、こうした経緯について、信長はまるで知らずにいた。というのも、北陸と関東の攻略が優先されたからである。
安土城の戦いからほぼ1年後、柴田勝家と前田利家の連合軍によって越後への進攻がなされ、勝家は春日山、利家は御舘という両面作戦により上杉景勝は敗れ、佐竹義宣を頼って南奥州へ落ちていった。この余勢を駆って、信長は関東侵攻を令した。北条氏政・氏直の一大拠点である小田原城の包囲であるが、降伏までに丸1年、費やした。信長が滝川一益と徳川家康を左右に控えさせて小田原に入城し、後北条氏を滅亡に追い込んだのは、天正12年(1584)も春のことである。
ところが、おもわぬ事態が勃発した。安国寺恵瓊が中国、四国、九州をまとめ上げ、足利義昭を担ぎ上げて織田家討伐の絵を描こうとしていたのである。
(次回に続く)