「高田馬場の決闘」に挑んだ堀部安兵衛の心持ちとは? 赤穂四十七士の一人の武勇伝
日本史あやしい話
堀部安兵衛といえば、言うまでもなく赤穂四十七士の一人である。吉良邸に討ち入り、見事仇討ちを成し遂げたという勇士であるが、実はその名を最初に高らしめたのは、その7年前に助っ人として立ち会った、高田馬場の決闘における活躍ぶりによるものであった。講談などでは18人も斬り倒したと語られることもあるが、本当のところはどのようなものだったのだろうか?
■助太刀・安兵衛の奮闘
「争いは好まぬが、果たし状を受けた以上、これに応えるのが武士の意気地」
こんな手紙を認めたのが、徳川家康の孫・松平頼純の家臣・菅野六郎左衛門(60歳)であった。続けて、「今より決闘に赴くが、助太刀は無用。ただし、俺が討たれたら妻子をよろしく」とも。
手紙の宛先は、当時25歳の中山安兵衛である。菅野とは堀内道場の同門で、叔父、甥の義盟を結ぶほどの信頼篤き仲であった。
その決闘とは、菅野が同じ松平家に仕えていた村上庄左衛門と些細なことで言い争った挙句、果たし状を突きつけられたことによるものであった。舞台は高田馬場。開始時刻は、元禄7(1694年)年2月11日四ツ時(午前10時頃)である。それに先立ち、菅野は甥の中山安兵衛に、遺言状とも思える手紙を認めた。それが、冒頭に記した一文であった。
この手紙が呑んだくれの安兵衛が住まう牛込の稲生屋敷へ届けられたのは、まさに四ツ時(池波正太郎『堀部安兵衛』は前夜となっている)であった。今まさに決闘が始まる時刻であったから、さあ大変!すわ一大事とばかり慌てて飛び出すも、途上、牛込馬場下の酒屋で枡酒をグビリ!(このあたりは作り話めいているが…)決闘の舞台となった高田馬場にたどり着いた時には、すでに菅野がたった一人、村上庄左衛門と大勢の助っ人たちに取り囲まれて苦戦中であった。身体中傷だらけで、瀕死の状態である。村上側が助っ人無用との約束を反故にして、大勢でなぶり殺しのような様相を見せていたのだ。これに憤った安兵衛。ならば「助太刀いたす!」と、勢いよく駆け出していった。見物人の中にいた娘(後に妻となる堀部きちと語られることもあるが、それはもちろん作り話)から差し出された緋縮緬の帯をたすき代わりにキリリ!その姿は、実に勇壮であった。
まず、菅野を背後から斬りつけようとしていた村上庄左衛門の弟・三郎右衛門の刀を刎ねあげたその返す刀で眉間を切り上げ、さらに正面に回って一刀両断。これを真っ二つに斬り捨てた。続けて打ちかかってきた剣豪・中津川祐見の首まで斬って打ち倒す。すでに、村上庄左衛門も菅野とともに斬り倒しているから、都合3人を仕留めたことになる。ただし、講談などでは話に尾ひれがついて、何と18人も斬り倒したことに。要するに、誰もが安兵衛の武勇に拍手喝采した、その表れというべきだろうか。ともあれ、これが、世に言うところの、高田馬場の決闘の全容であった。
ただし、安兵衛が加勢して大きな働きをしたにもかかわらず、全身傷だらけの菅野は、屋敷に運ばれて間も無く、息を引き取ってしまった。返す返すも不運だったと言うべきだろうか。
■江戸中の人気者から赤穂藩士へ
この果たし合いの情報は事前に漏れていたため、多くの見物人が押しかけていたという。その彼らが安兵衛の見事な働きぶりを吹聴したことで、江戸中の評判に。一躍、安兵衛の名が知られることになったことは間違いないようである。
当然の成り行きとして、士官のお誘いもひっきりなしであった。赤穂藩士であった堀部弥兵衛もその一人で、安兵衛を気に入り、堀部家への養子入りを熱心に持ちかけたのである。その熱意に安兵衛が根負け。弥兵衛のひとり娘・きち(ほりとも)と結ばれている。こうして堀部家を継いだ安兵衛、名を堀部安兵衛と変えて、御使番、馬廻役として赤穂藩に仕えることになったのだ。
それから7年後の元禄14(1701)年、浅野内匠頭が江戸城内の松の廊下で、吉良上野介に背後から斬りかかって傷を負わせるという刃傷沙汰が起きた。誰もが知るところの赤穂事件の始まりである。浅野内匠頭は、将軍・綱吉の命で即座に切腹。赤穂藩もお取り潰しとなって、家臣たちの多くが路頭に迷うことに。この時、浪人となって亡き内匠頭の恨みを果たさんと、密かに準備を始めたのが、江戸急進派のリーダー格となった安兵衛であった。
憎っくき上野介、これを討つために名を長江長左衛門と改め、本所林町に潜伏しながら着々と準備。大石内蔵助をも叩きつけて仇討ちを決行したのが、元禄15(1702)年12月14日の夜半のことであった。名高き赤穂浪士四十七士の吉良邸討ち入りである。安兵衛は裏門組を担当。長太刀を用いて奮戦(ただし刀背打ちを押し通して、一人も殺していない)したとか。激闘1時間余りの後、上野介を発見。その首を刎ねて、見事仇を討ったのである。その後、安兵衛の身柄は松平邸にお預けとなった後、荒川十太夫の介錯で切腹(元禄16(1703)年2月4日)。港区高輪の泉岳寺に埋葬されたとの経緯はご存知の通りである。享年36であった。
なお、越後国新発田の親類に当てた遺書「いとま乞い」及び、堀部弥兵衛との養子縁組に至る経緯を記した「養子一件書付」も近年発見されて公開されたようである。筆者はまだ見ていないが、高田馬場の決闘についても言及しているというのが気になるところ。安兵衛の仇討ちにかける思い、それが記されているとすれば、是非とも目にしておきたいと思うのだ。

「誠忠義臣名々鏡 堀部安兵衛武庸」/国立国会図書館蔵