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【三国志 最強の “暴君” 】董卓を討った王允と呂布は、なぜ失敗したのか?

ここからはじめる! 三国志入門 第127回

董卓と、その腹心の部下だった呂布。両者は義理の親子にまでなったが、衝突してしまう。連環図画三國志(上海世界書局 中華民国16年)より

前編「【 三国志の “暴君” の強さとは? 】猛将の呂布や張遼、異民族を従えた董卓の軍勢」の続き

 

■日本の文献にも挙げられた董卓の名前

 

 三国志最強といわれる暴君・董卓(とうたく)。その「悪名」は、数百年を経て海を越え、わが日本にも伝え聴こえていたようだ。『日本書紀』成立から間もない飛鳥時代の書『藤氏家伝』(760年成立)に、早くも董卓の名が挙がる。

 

「董卓暴慢、既行於国」(董卓の暴政が国中に横行していた)と、蘇我入鹿(そがのいるか)の横暴ぶりをそれに例える一文が出てくるのだ。645年、蘇我入鹿は中大兄皇子(のちの天智天皇)に宮中で斬られて命を落とすが、確かに董卓が呂布に斬られて死んだのと似ている。

 

 入鹿はさておいて、オリジナル董卓の暴慢とは、いったいどんなものだったのか。歴史書『三国志』によると、ざっと以下のようなものが挙げられる。

 

・少帝【劉弁】を廃立し、弟の劉協を皇帝にした。

・少帝と母(何太后)を毒殺。

・富豪を襲って金品を奪い、村祭りに参加していた男を皆殺し。

・自分の身内を重用し、高い官職を与えた。

・馬車に皇帝専用の傘を立てて乗り回した(諫言され改める)。

・歴代皇帝の墓を暴いて財をうばった。

・悪貨を流通させて貨幣価値を大暴落させた。

 

 ざっと、こんなところか。ほかにも捕虜を大鍋に入れるなど残虐な方法で殺し、平然と酒を飲んでいた――などの残忍さをうかがわせるエピソードがある。このうち、いくつかは董卓以外の歴史上の為政者が行なったものが含まれ、理由付けもできる行為はあるとはいえ、記録を表面上から見る限り、立派すぎるほどの暴政の数々には違いない。

 

■首謀者、王允は何がしたかったのか?

 

 さて、その董卓を除いた張本人・王允(おういん)は、朝廷内におけるナンバー2の座にあった人物だ。三公という最高職の座に据えられ、重用されてはいたが、彼は董卓の横暴を快く思っていなかった。

西暦190年ごろの後漢勢力図。この前後3年は董卓の全盛期であった。 地図/ミヤイン 参考『中国歴史地図集 第二冊 秦・西漢・東漢時期』他

 小説『三国志演義』では、美女・貂蝉(ちょうせん)を使って董卓と呂布を仲たがいさせる「連環の計」がよく知られるところ。ただ、正史でも呂布は奥御殿で董卓の女中に手をつけ、内心びくついていたとある。そんなこんなで仲がこじれ、ついには董卓が呂布を矛で突き殺そうとする事態に発展。

 

 好機とみた王允は、同じ并州(へいしゅう)出身という縁もあって、呂布と気脈を通じて董卓を殺させた。王允の頼みを聞いた呂布は詔書(しょうしょ)を懐に入れていた。帝の同意を得ていた証だが、傀儡(かいらい)だった献帝がどこまで関わっていたのかはわからない。

 

 かくして董卓は倒れ、王允と呂布ら并州新政権が発足。ところが『後漢書』などによると、その後の王允は失政を連発する。特筆すべきは董卓政権の与党派の粛清。そのなかには当代一流の文人・蔡邕(さいよう)も含まれていた。

 

『後漢書』によると、王允は正義感こそあったが、頑固で融通が利かない人だったようだ。それもあってか、董卓を倒して燃え尽きたのか、呂布にもぞんざいな態度をとり、早くも并州政権に陰りが生じる。

 

■王允最大の失策

 

 また董卓が西域の守備に残していた涼州軍を冷遇し、解体させようとしたのも、拙劣な政策だった。李傕(りかく)、郭汜(かくし)らが許しを乞おうと交渉を持ちかけてきたのに、これを王允は跳ねつけた。追い込まれた涼州軍が蜂起し、長安は60日で落ちた。

 

 防戦につとめた呂布は、郭汜を一騎討ちで破るなど局地戦では善戦したが、もともと防戦は不得手なタイプ。あっさり負けて逃げてしまった。呂布配下には張遼や高順といった名将もいたようだが、彼らはまだ名を成すには至っていない。

 

 それでも2ヵ月もちこたえはしたが、城内の王允との連携不足で満足に戦えなくなったのだろう。呂布は撤退時に王允を連れていこうとしたが、王允はそれを突っぱねたという。

 

 そして、なすすべなく王允は李傕らに斬られた。56歳。彼のビジョンのなさ、衰えを年齢でとらえるには若すぎる。気になるのは先に死んだ董卓の年齢だが、王允より年上だったのか。彼には90歳になる母がいたというから、60歳ぐらいにはなっていたのだろうか。

 

 ともかくも、こうした展開をみると、やはり董卓の存在は大きかったことが分かる。3年弱の絶頂期とはいえ、董卓が中国史上に名前を残したのは事実。彼の破壊(暴政)が『三国志』の幕開けになり、曹操や劉備が台頭する流れができた。それが中国史上にみる董卓や王允の役割といえるだろう。

 

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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