武士の刀を奪ったのは「獣」だった!? 湯治に訪れた藩士が経験した不思議なできごと
世にも不思議な江戸時代⑥
ひどい頭痛に悩まされていたある藩の藩士が、山奥の温泉に湯治へ出かけた。その甲斐もあって具合がよくなってきたころ、大切な刀を失ってしまった。
■医者が引っ越してきてから体調を崩した妻
ある藩の藩士の身に起こった出来事である。若い頃からよく励み、享保(1716~1736)頃に、馬廻頭を務めるまでになった。この藩士がある年の春先におひまをいただいて加賀国石川郡湯湧へ湯治に行くことなった。近くに住む人が白鷺が体を休めているところを見て、温泉があることを発見したという伝承を持つ名湯だ。険しい山道を越えた山奥に湧き、加賀藩のお殿様が幾度も訪れたとも伝わる。
江戸時代、温泉に浸かって病気やケガを直す湯治は盛んに行われていた。仕事以外の旅行を制限していた幕府も、五穀豊穣のための祈禱と、湯治は許可していたという。当時の湯治は、7日間を一廻りとし、最低三廻り、つまり21日は続けないと効果がないとされていた。この藩士は、湯治に来てひどかった頭痛がよくなったのだろう。寝て食べて湯に入るだけの毎日にすっかり飽きてしまった。
そこで、従者たちを連れて、温泉地のはずれにある薬師堂に出かけた。藩士はここからの絶景を肴に酒をチビリチビリと楽しんでいた。ところが、酒が入って気が大きくなったのか、突然、刀をその場に置いて近くの崖を登り始めた。そうして登った崖の上からの景色は他にくらべるものがないほど素晴らしいものだった。
しばらく絶景を楽しんだ後、藩士は元の場所に戻り、刀を差そうとしたところ、肝心の刀が見当たらない。藩士だけではなく従者たちも必死になって探したが、とうとう出てこなかった。しかし、日が暮れてしまうと帰れなくなってしまうので、仕方がなく宿に引き上げることにした。
しかし、あの刀は家宝だったので、そのまま湯治に行って無くしましたという訳にはいかない。藩士は、泊まっていた宿だけでなく、他の宿の湯治客にも聞いてみたが、皆知らないという。
ところで湯治客の中に、ある寺の僧がいた。この僧は占いもできるという。そこで、藩士はさっそく占ってもらい、「刀を盗んだのは人ではありません。獣だと思われます。しかし、安心してください。やがて出てくるでしょう」という回答を得た。藩士は、次の日に、大勢の人を頼んで探しに出かける段取りをつけてこの日は眠りについた。
その日の夜、寝ている藩士に障子を隔てた縁側から話しかける者がいる。
「私は、この山に住む者です。子供がひとりいたのですが、つい先日悪い鳥にさらわれてしまいました。その悲しみは言葉にできないほどでした。今日、山であなたの宝剣を見かけたので、お借りしてその仇を果たすことができました。そのお礼に伺ったのです」
藩士は慌てて起き上がって、障子を開けた。そこには急いで逃げていく猿の後ろ姿があった。そして、縁側には抜き身の刀とともに鷺のものであろう半身に斬られた鳥が置かれていた。
藩士は大いに喜んで、従者や宿の者たちを呼んでこれを見せた。この話は瞬く間に湯治客の間に広まって、大勢の人がやって来たそうだ。
その後、藩士は占った僧に厚くお礼をして、帰路についた。戻ったこの藩士は刀に『鷺切』と名付けて秘蔵したと、伝わっている。

「鷺図」単庵智伝筆/東京国立博物館蔵:ColBase
鷺は、水田地帯などでよく見かける日本人になじみ深い鳥。主に魚やかえるなどの両生類などを餌としているが、時には哺乳類なども捕食することがあるという。