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「戦争の傷跡」を描いた『泥の河』 復興の陰で忘れ去られた人々の悲哀【昭和の映画史】


■歴史に埋もれた人々に光を当てる

 

 『泥の河』は今、一部の映画通以外にはほとんど知られていない。ほぼ忘れられた、知られざる名作である。淡々とした地味な映画である上に監督が比較的佳作で、通好みの映画を制作してきたこと、高齢もあってすでに制作から手を引いているなど、様々な条件が重なったからだろうか。

 

 しかし小栗康平監督は、6本の映画のうち4本が海外の著名な映画祭で上映され、そのうち3本が賞を受賞している。大変な確率だ。そんな小栗にとって『泥の河』は、長編第1作にして世界で評価された記念碑的作品である。原作は宮本輝の同名小説である。

 

 制作したのは大手映画会社ではなく、木村プロダクションという小さな制作会社だ。木村元保という、元大映のカメラマンが設立した映画制作会社である。70年代~80年代に5本の佳作を制作して、高く評価された。

 

 大映の倒産で町工場の経営者に転身しながら、映画への情熱を保ち続けた人物である。この映画のために用意した制作費は、3500万円という超低予算だった。さすがに1000万円オーバーし、木村が借金して穴埋めした。

 

 映画制作には多額の費用がかかる。町の鉄工所を経営しているぐらいでは、資金を捻出するのは大変だったろう。しかし結果として、いい作品を5本も制作して映画史に名を残し、2002年に67歳で亡くなった。

 

 大手映画会社に所属せず、プロデューサーや俳優、監督などの製作者が主体になる独立プロダクションは、日本映画の草創期である1920年代、大正末期から存在していた。

 

 「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三のマキノプロや、田村正和ら三兄弟の父親である時代劇スターの「阪妻」こと阪東妻三郎、市川右太衛門、片岡千恵蔵らもそれぞれ独立プロダクションを持っていた。

 

 しかしトーキー、つまり今のような声の出る映画が登場すると、映画制作には資本力が必要となって、独立プロは立ちゆかなくなった。それが復活するのは皮肉なことに、東京五輪後にテレビが普及し、映画産業が傾いていく中でのことだった。三船プロや石原プロモーションなどが、この時期に誕生している。

 

 新藤兼人の近代映画協会、大島渚の大島プロなど、個性派監督たちも独立プロダクションを作った。さらにATG(アートシアターギルド)が設立され、商業ベースに乗りにくい、芸術色の強い佳作を多く生み出したのである。木村プロも、その流れの中で生まれたものだった。

 

 『泥の河』は木村プロの3作目である。舞台は昭和31年(1956年)の大阪。川沿いの小さな食堂の息子・信雄は、ある日、喜一という少年と出会う。喜一は信雄と同じ9歳で、2つ年上の姉がいる。そして2人とも、なぜか学校に行っていない。

 

 喜一と姉が信雄の家に遊びに来た時のこと。居合わせた客が、この二人の母親・笙子は対岸に停泊している船で、客を取っているという噂を口にする。その後、信雄が喜一の船を訪ねると母親の笙子が出てきた。笙子は、汗にまみれて働く自分の母親とは違う、妖艶な香りがする女性だった。

 

 そしてある日、信雄が喜一の船に遊びに行った時、ひょんなことから、その笙子が男性と抱き合っている姿を見てしまうのである。信雄は喜一と言葉を交わすこともなく、船を出て走り去るのだった。翌日、船は岸から離れて動き出す。初めは無視を決め込んでいた信雄だが、やがて喜一の名を呼びながら追いかける。しかし船はどんどん遠ざかっていった。

 

 原作では昭和30年(1955年)の話になっているのを、小栗監督はあえて翌年にしている。この年は通産省が(当時)白書に、「もはや戦後ではない」と明記した年である。「もはや復興期は終わった。これからは安定成長を目指す」という意味だった。

 

 しかし、信雄の周囲にはまだ戦争の傷跡が残っていた。映画の冒頭、戦争で片耳を失った男が、荷車に轢かれて命を失う場面がある。信雄の父は「あの戦争を生き延びたのに、こういう形で死ぬなんて」と悲しむ。

 

 喜一の母親はおそらく戦争未亡人だろう。戦争未亡人は、靖国の妻として気高く生きることを求められた。小津安二郎の名作『東京物語』では、原節子が戦死した次男の未亡人を演じ、理想的な嫁にであり戦争未亡人であることの辛さを告白する。

 

 戦争未亡人は、家のために亡夫の兄弟と結婚することもあれば、子どもだけ置いて実家に戻されることもあった。830()NHKEテレがETV特集で『戦争未亡人と呼ばれて 百歳を超えた妻たちの戦後』を放送した。そこで語られる戦争未亡人の苦労は、大変なものだった。

 

 さらに周囲の男性たちは「大変だね」と言う一方で、笑いながら「今晩行くから」と言ってきて、実際に押しかけてくることもあったという。女性ながらの苦労である。中には、喜一の母親のように生きるしかない戦争未亡人もいただろう。

 

 信雄の父親を演じるのは田村高廣。戦前の大スター、阪東妻三郎の息子である田村兄弟の長男で、田村正和の長兄である。サラリーマンだったが父が急逝。長男として父の名声を継ぐことを求められ、父が借金をしていた松竹から「俳優になれば借金は帳消しにする」と言われ、映画界入りを決意した。

 

 この連載でも取り上げた『二十四の瞳』や『兵隊やくざ』などに出演して、俳優としての地位を確立、映画やテレビドラマで幅広く活躍した。2006年に77歳で亡くなったが、生前「『泥の河』の父親役をとても気に入っている」と話していた。

 

 喜一の母、笙子役は加賀まりこである。芸能一家に生まれ、父親は大映のプロデューサーだった。明星学園高等学校在学中、通学姿を見た篠田正浩と寺山修司にスカウトされて芸能界に入る。

 

 個性的な美貌で、その独特の魅力は「小悪魔」と評され、劇団四季の浅利慶太や作家の川端康成などにも愛された。だが『泥の河』では全くイメージの違う戦争未亡人を、美しく儚げに演じている。

 

 やがて街からは戦争の傷跡は消えていく。だが戦後80年の今年、元兵士が心に負った傷が改めて注目されている。心を病んで精神科病棟で人生を終えたほか、戦後の社会に適応したように見えても、いきなり豹変して暴れたり、酒を飲んでは家族に暴力を振るう元兵士が大勢いたのだ。

 

 高齢になった娘や息子たちがいま、その辛い体験を語り始めている。父親から暴力を受けた世代がまた子どもに暴力を振るうという、DVの連鎖も指摘されている。

原作の舞台となったのは、大阪市の土佐堀川。現在はオフィス街としてにぎわう。

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過去記事

川西玲子かわにしれいこ

1954年、東京生まれ。(公社)日本犬保存会会員。専門学校や大学で講師を務めた後、現在は東アジア近代史をメインに執筆活動を行う。主な著書に『歴史を知ればもっとおもしろい韓国映画』、『映画が語る昭和史』(ともにランダムハウス)、『戦時下の日本犬』(蒼天出版)、『戦前外地の高校野球 台湾・朝鮮・満州に花開いた球児たちの夢』(彩流社)など。Amazonに著者ページあり。

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