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江夏豊の1968年『左腕の誇り』を振り返って〜王貞治から狙って獲ったプロ野球新記録〜

あなたの知らない野球の歴史


プロ野球新記録を王貞治から狙って獲る

 

 本年は阪神タイガース創設90年である。リーグ優勝は何度もあるが、日本一となったのは1985年と2023年のたった2回である。理由はいろいろあろうが、親会社の不透明な支援姿勢、内部紛争、強力打線が揃う時がなかなかなかったなど。藤村富美男、村山実、江夏豊、田淵幸一といった名選手が数多く存在しても日本一を獲得するのは難しかった。

 

 さて名選手を輩出した阪神なので、いろいろ紹介したいことは多々あるが、紙面の都合上、江夏豊氏にインタビューして『左腕の誇り』を四半世紀前に記しているので、そんな思い出を含めて20世紀、日本プロ野球界最高の左腕投手の一人についてふりかえってみたい。文面は江夏豊で伝えることを予めお断りしたい。

 

 ともかく大変なヘビースモーカーで、しかし、話はさすがに面白く記憶力も抜群で、試合情景が浮かぶようなリアリテイー感があった。何度も記者に話していて、記憶が積み重なっていることも否定できないが、それにしても投球術は聞くに値する。また「なぜ京都が好きになったのか」「黒い霧事件の中、何をしていたのか」「覚せい剤事件」「野茂英雄を見た時」「MLBに初めて挑戦した経験」「娘さんのお見合い問題」「衣笠祥男氏との想い出」など話題はいくつもあるが、ここでは最高の野球人生に遭遇した時代を紹介したい。

 

 江夏といえば1979年の日本シリーズでの『江夏の21球』が有名だ。マウンドに上がったものの、9回無死からヒット、盗塁を挟んで四球、四球、三振、スクイズ失敗で2アウト、三振とまさに自作自演の火消しである。山際淳司(やまぎわじゅんじ)の巧みな筆致でスポーツが文学にまで昇華した作品になっている。こちらは政治学者であるので、試合を分析し、歴史的事実を丹念に調査して江夏の足跡を追うという手法を取った。この日本シリーズの最終戦では、江夏の究極の投球技術が披露されたことは間違いない。

 

 しかしながら、筆者は1968年の入団2年目の20歳の若者江夏がそのパワーと技術を内外に実力を見せつけた後世に語るべきシーズンだったと思っている。すでにストレートは一級品で入団1年目から225個の三振を奪うほどの江夏、2年目はエンジン全開(20勝をあげている)だった。

 

 この年を象徴する伝説の試合は、1968917日の対巨人戦(甲子園球場)だった。奪三振記録は、国鉄の金田正一が350個、稲尾和久は353個、稲尾の日本記録を越えるためにはあと8個まで迫っていた。登板した江夏はライバル王貞治から気合を込めて試合中盤、353個目の三振を奪って彼は新記録と喜んだ。だが、稲尾に並んだだけで捕手に指摘され勘違いと分かる。ここからが凄い。再び打者を一巡して王から354個目の三振を奪おうとするのだ。結果論ではなく、狙って王から新記録の三振を奪おうと意図があったのだ。打者が一巡する間、ヒットは1本打たれたが、再び王から三振を奪って日本記録を塗り替えた。聞けば、心配だったのは巨人の高橋一三投手だったという。彼が打席に立てば三振するのではという危険が一番高かった。慌てたのは、高橋を2球で追いこんでしまったことだ。だが緩い変化球で2ゴロ・アウト、そして再度の王との対戦、見事354個目の三振を奪った。こんな芸当、21世紀の日本人投手で誰ができるだろうか。打たせて取る技術を駆使して、王には最大の集中力で乗り切ったのである。

 

 それだけではない。ロサンゼルス・ドジャースにはサンディー・コーファックスという大投手が1965年シーズン奪三振382個という大記録を打ち立てていた(1900年以降の近代野球におけるメジャー記録はノーラン・ライアンの383個/1973年)。MLB162試合、日本プロ野球はこの年134試合で、単純に比べられないが、日本のプロ野球が試合数が少ない分、江夏の功績は誇るべきだろう。さらに10月にはシーズン401個というとてつもない記録を打ち立てた。この試合、それだけでは終わらなかった。

 

 試合は、両チーム得点はなく00で延長戦に入った。延長12回、12塁(ランナーは吉田義男)で巨人は8番打者を敬遠、9番の投手江夏と対戦した。高橋一三投手は江夏でアウトを稼ぐつもりだったが、なんと江夏はセンター前ヒット、吉田が生還して阪神がサヨナラ勝ちで終了した。江夏は奪三振日本記録を達成、対巨人戦完封、おまけにサヨナラヒットという獅子奮迅の活躍だった。アニメの世界のような活躍だ。入団2年目の江夏は25勝、26完投、8完封と最高のシーズンを達成している。

 

 シーズンが終了して、秋に日米野球が行われた。来日したチームはセントルイス・カージナルス。前年はワールド・チャンピオン、この年もワールド・シリーズでは第7戦までもつれて敗退したが最強のメジャー・チームだった。エースに「オマハ超特急」といわれたボブ・ギブソン投手(オマハ生まれだった)、機動力野球を象徴するルー・ブロックといった名選手が名を連ねていた。合計18試合、日本は5試合だけ勝利した。王貞治は1人で6本のホームランを放ち実力を見せた。だが江夏は凄かった。第3戦、第8戦に登板、9イニングで被安打5、奪三振15、自責点0、先発は1回で2勝0敗だった。当然、自責点は0。まさにドクターKだった。翌日マスコミは「バッタバッタと三振を奪い」といったフレーズが紙面を踊った。

 

 試合終了後、カージナルスのアルバート・フレッド・ショーエンディーンスト監督は驚いていた。「あんな左腕投手、見たことがない。連れて帰りたい」、また江夏を『世界最高の投手』と大絶賛している。江夏はこれがこの年の最後の登板だった。わずか2試合ながら世界の奪三振王の実力をみせたわけだが、このとき彼がメジャーに挑戦していたらどうなっただろうか?想像するだけでワクワク感がある。

 

 他にも1971年のオールスターでの話は秀逸だ。前夜、翌日の試合で登板はないと聞いていた江夏は徹夜マージャン、ところがグランドに入ると先発登板の指示、慌てて巨人の新浦寿夫(にうらひさお)投手のグラブを借りて3イニング、9人を全員三振で降板した。これもまた劇画のようなエピソードである。実はこの年5月に心臓病を患い成績は今一つだった。何しろ一日4箱も煙草を消費、日ごろの不摂生で体調に変化が忍び寄っていた。第3戦でも登板してオールスターでは15打席連続三振まで伸ばしたが、最後は野村克也がバットを短く持って当てにきて連続記録は野村によって切られてしまった。

 

 その野村、監督時代に野球に革命をおこそうと言って江夏をリリーフエースに衣替えさせたが、後年、本格派の左腕投手として金田正一と江夏豊が双璧と賞賛している

 

 

甲子園球場

 

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波多野 勝はたのまさる

1953年、岐阜県生まれ。歴史学者。1982年慶応義塾大学大学院法学研究科博士課程修了。法学博士。元常磐大学教授。著書に『浜口雄幸』(中公新書)、『昭和天皇 欧米外遊の実像 象徴天皇の外交を再検証する』(芙蓉書房出版)、『明仁皇太子―エリザベス女王戴冠式列席記』(草思社)、『昭和天皇とラストエンペラー―溥儀と満州国の真実』(草思社)、『日米野球の架け橋 鈴木惣太郎の人生と正力松太郎』(芙蓉書房出版)、『日米野球史―メジャーを追いかけた70年』(PHP)など多数。

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