彰義隊は徳川慶喜への“忖度”で結成された!? 名誉を回復するはずが、かえって新政府軍の威信を高める結果に⋯
忖度と空気で読む日本史
慶応4年(1868)、一橋家臣を中心に結成された彰義隊。当初は徳川慶喜の護衛と名誉回復を目的とする穏健な団体であったが、次第に新政府への抗戦を辞さない先鋭的な集団へ変化していく。慶喜への“忖度”で結成された彰義隊は、なぜ徳川家の立場を悪化させかねない武力集団へと変貌し、上野戦争を引き起こしたのだろうか。
■慶喜の名誉回復のために結成された尊王恭順有志会が母体
慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いは旧幕府軍の完敗であった。大坂城から江戸に逃れた前将軍・徳川慶喜は、新政府から「朝敵」の烙印を押され、官軍の追討を受ける身となる。
もちろん、慶喜には天皇に逆らう意図など毛頭ない。戦いの目的は、あくまで薩摩を討つことにあった。だが、幼い天皇の身柄が新政府におさえられている以上、天皇を攻撃したという理屈に反論することもまた困難である。そのことを熟知していた慶喜は、江戸帰還から1か月後の2月12日、勝安房(海舟)に後事を託し、上野・寛永寺に入り謹慎生活を始める。
一連の動きを見て、慶喜の名誉回復に立ち上がったのが、一橋家出身の旧幕臣たちだった。周知のとおり、慶喜は将軍就任前、一橋家の当主を務めていた。一橋家の人々は、一般の幕臣以上に、慶喜に敬愛の念を抱いていた。
2月13日、雑司ヶ谷の料亭で最初の会合が開かれた。出席者は陸軍将校の本多敏三郎以下、伴門五郎(ばんもんごろう)、須永於菟之輔(すながおとのすけ)、小林清五郎ら17名である。
当初、この団体は尊王恭順有志会と呼ばれた。目的は慶喜の身辺を守りつつ、朝敵とされた主君の冤罪を晴らすことにあった。あくまで、慶喜への忖度から生まれたものであり、新政府に敵対する意図はなかったことに注意したい。
風向きが変わるのは、四ツ谷・円往寺における3回目の会合からだ。この時、のちの内部抗争のキーマンとなる渋沢成一郎と天野八郎が加わったのである。
渋沢成一郎は武蔵国血洗島(ちあらいじま/埼玉県深谷市)の農民の出身で、従兄弟の渋沢栄一とともに一橋家に仕え、将軍となった慶喜の奥右筆(現在の総理大臣秘書官のようなもの)を務めたエリートである。
一方、天野八郎は上野国の庄屋の息子で、慶応元年(1865)に江戸の定火消与力の養子となり幕臣に加わった。若い頃から剛毅で、胆力と正義感は武士以上。直心影流の使い手で、太刀さばきは目にもとまらぬほどであったという。
同じ農民出身の旧幕臣ではあったが、2人はまったく対照的だった。高級官僚出身の渋沢が、常に慶喜の名誉と生命を第一に考えたのに対し、天野は在野の士らしく、チャンスがあれば名をあげたいという野心にあふれていた。両者の志の違いが、尊王恭順有志会の方向性を変えていくのである。
■渋沢暗殺未遂事件が勃発! 激化する穏健派と武断派の抗争
同会が抱える矛盾は、続く2月23日の会合で表面化した。この日、渋沢の発議により隊名の変更が検討された。より多くの同志を募り、天下に向けた発言力を高めるのがねらいだった。「昭義」「貫義」「彰義」などが挙げられたが、最後は衆議によって彰義隊とされ、浅草・本願寺を屯所とすることが決まった。
さらに、130名の隊士の投票により幹部が選ばれ、渋沢が頭取、天野が副頭取、本多敏三郎・伴門五郎・須永於菟之輔が幹事となった。
5人のうち4人を一橋系が占める中、在野からただ1人、天野が選ばれたのは不自然に見えるが、おそらく好戦的な旧幕臣たちの支持によるものだろう。穏健派と武断派の対立のきざしは、この時、すでに表れ始めていたのである。
彰義隊はまもなく徳川家公認の組織となるが、その一方で、両派の対立も鮮明になっていく。渋沢は要職に一橋系の隊士を任命して隊の掌握を急いだ。一方、天野は独自に市中の巡回を開始し、自ら指揮をとって人気を博した。この市中警固は、のちに徳川家公認の任務となる。隊士の募集についても、渋沢が素性の良い旗本・御家人にこだわったのに対し、天野は身分にかかわりなく積極的に入隊希望者を採用した。
その後、天野の配下による渋沢暗殺未遂事件も起こるなど抗争は激化の一途をたどった。ここに至って分裂は不可避と考えた渋沢は、4月、慶喜が水戸へ退去したのを機に彰義隊を脱退。100人ほどの同志とともに江戸を去り振武軍(しんぶぐん)を結成する。
一方、武断派に牛耳られた彰義隊は、屯所を上野・寛永寺に移し、旧幕府諸隊士や諸藩の来援も迎えて勢力を拡大。新政府軍との対立を深め、5月15日の上野戦争を迎える。
しかし、長州の大村益次郎の采配により、戦争はわずか1日終結する。この敗戦により、関東の旧幕府勢力は北への後退を余儀なくされ、江戸無血開城後、停滞していた新政府軍の東征が軌道に乗り始める。
慶喜への忖度で生まれた彰義隊は、結果的に新政府軍の威信を高める役割を負わされたのである。

将軍時代の徳川慶喜 国立国会図書館蔵